『ヘイル、シーザー!』、誰にヘイルしてるのか、誰を崇めているのか? シーザーと同一化されているスターに対してであり、この作品では不可視の存在として表されるダリル・F・ザナック的人物に対してであり、そしてそれは、ハリウッドそのものに対して崇め敬うこと繋がり表されている。ジョシュ・ブローリン演じる主人公は反リベラル、ってより、マルクーゼもキリストもエイブラハムも、ウィリアムワイラーもケネスアンガーも、左とか右とかそんなもの関係なく、社会に生きるヒトってのがハードボイルドに表されている。キャピタリズムの象徴を崇めているようで皮肉っているところがコーエンズらしく、彼らがシナリオで参加したスピルバーグの『ブリッジ・オブ・スパイ』を対として、というより、二つの作品を互いに相対化して考えると、なにか面白い発見あるのではと思えてくる。思想の自由と仕事に対する責任というものが、『ブリッジ・オブ・スパイ』の自由とは何かという主題に内包されていた。さて、『ヘイル、シーザー!』で張りぼてのスターを演じたクルーニーの監督最新作、これにコーエンズがシナリオで参加しているけれど、コーエンズなら主役にスターを決して使わないけれど、クルーニーはお仲間のデイモンをスター起用し、コーエンズがいつも描くような偶然の中でヘタレていく男を描いてみせる。おもしろそうである。
『ヘイル、シーザー!』も構造的欲望に駆られ再見したくなるが、『ヘイトフル・エイト』、ストーリー的に意外性もなにもない感じだったけれど、これまたストラクチャーを再考するのになにかまたまた観たくなる。ラストの首吊り、あれなに?なんの意味なんだ!?と思ったけれど、不可視の暴力を形而上学的現象学的フィロソフィカルに解こうかのようなデヴィッド・フィンチャーの描き方と違って、タランティーノはただただ暴力を暴力としてあるがままに表したのだと、きっと思われるのである。ってことは、彼の現在の志向性を考えると、次回作のマンソンファミリーを扱ったものって、かなりグロくなるのかなとコワくも思えてくる。いつものようにポップには描くのだろうけれど。それでもね。。
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