★ゆーちゅーぶで内なる傷痕を拝見。
映像なかなかヨカッタ。
シンボル!シンボラー!シンボリスト!『内なる傷痕』って表象性あらわである。わらわは、そうした神話性にウンザリしかねないところであるが、こうした間主観的な共有認識- なにも西洋だけではなく全国世界あちこち –は劇場空間を供儀のトポスとす。1968年の怒りとその後の消沈から離れた場所でその灯火をかざし、ニコの号泣から始まりその安静になるまでの間が、モメントとして、映像として、オーディエンスのこゝろに神性を申請し、そして、彼ら我々はその平穏を受け入れる。
ピエール・クレマンティ、『昼顔』しかり、『豚小屋』しかり、『分身』然り、美しい身体をはだける怪優である。ニコの初盤における号泣、世界に対する悲しみだけではなく、春をも目覚めさせるものである。如何なる生き物の死んだ魂を揺さぶり動かすのである。
★ゆーちゅーぶでママと娼婦を拝見。
映像なかなかヨカッタ。
ピエールレオはアントワーヌ・ドワネル然り、『中国女』の青年しかり、『豚小屋』のブルジョワジー然り、『ラストタンゴ・イン・パリ』のテレビ映画の監督しかり、形やタイプが変われど、時代の影を背負う。されど、そこにはアルベールプレジャンから脈々と受け継がれる伊達さと粋なところ、ユーモアもちゃんと輝いている、しるゔぷれ。『ママと娼婦』もまた、そうした巴里ジャンじゃん。プレジャンであってもボリスヴィアンや様々なイズム吹き荒れるパリを通過したあとの主人公、利己主義に見えるものの、さにあらず、忸怩たる思いと自意識の葛藤のなかにおいて、ピリリと感覚が研ぎすまされてしまったかのようである。そうした時代の香りとして醸し出され、レオに表わされている。(途中休憩)
ログインしてコメントを確認・投稿する