『フェリーニのローマ』
前半、無神論者のお父さんに家族が映画館に連れて行かれるが、そこで彼らがスクリーン真下あたりから観る映画は、そのやや斜めになったフレームのなか、登場人物の身体の下方が歪んだ形となって表わされる。われわれを映画の登場人物たちとともに、フェリーニの映画テクストの世界に融即させる。われわれの眼差しは彼らとともに、ローマの時空間をそのヘイズツアーとして視覚化され旅をする。スタジオで再現されるアパート、レストランやバーレスク小屋、娼館のノスタルジー。そして、現代を捉えるドキュメンタリー。ローマの姿、世界の姿。
ノスタルジックな1940年代のローマと比し、1972年の現在のローマは過去の良き時代を消し去るかのように表わされる。ゴダールのウィークエンドのようなハイウェイのクルマ々々々々々を舐めて表わしていくショット、地下鉄工事のヒトやモノの無機質感覚、ゴジラのようなドリルに消えゆく古代のフラスコ画、フリーラブの若者たちは語り部が懐かしみ愛着と愛嬌をもって表わすあの時代とは違ったものとして語らしおん。しかしながら、それでも、良き時代のローマとコントラストされているかのようであっても、フェリーニの集団的無意識を捉えるテクストは、現代も過去も等価のモノとして表わす。
過ぎ去る時代はイノセントであり現在はいつも生々しい。それが現代という今此処において、生そのものを表わしている。『甘い生活』のラスト、もはやイノセンスの声が届けられることがなくなってしまったマストロヤンニであっても、都会社会を生きていく。生はあるがままに、そこにあるのである。悲しみと不安は、未来とともにある。大衆が生きている。生きる痕跡は常に描かれる。ラストのバイクのライトが照らすローマには、消ええぬ生が刻印される。
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