『真夜中のサバナ』
冒頭の少女像が不気味である。オカルト嗜好のイーストウッドが不気味である。かつて観たことあるが、ストーリーをさっぱり忘れていたが、アリソン・イーストウッドがなんてとても綺麗な人なんだろうと思った記憶のみが鮮烈にのこっていた。今回はそこまでの強烈さを感じなかったが、以前には気付かなかったとこで、やはりお父さんと似ているなと冷静に思えてくる。彼女の描かれ方がなにかミステリアスだった印象であったが、それはたぶん、突然の訪問とその後の彼女の現れ方がそう思わせたのであろうけれども、今回は彼女が演じるマンディはとてもマイペースな人物なのだと感じ、そこがミステリアスな印象としてのこったのかと思ったわけである、かしこ。
興行成績も悪く批評筋からも好評価ではなかったらしいけれど、なにか奇妙に印象に残ってしまっており、もう一度観るのであった。3時間の上映時間は長いけれど、イーストウッドのマイペースなテンポは気持ちよい。マンディだけではなく、ジムという人物のミステリアスさとマイペースなところも、この作品のテンポと合う。スペイシーはこのころ大活躍の時代であった。ジョン・キューザックを主人公に置いているところも、この作品のマイペースなテンポにフィットする。
スピルバーグもイーストウッドもマイノリティを表わす。人種的なところやジェンダー的なところだけではなく、しちゃいけないことをしてしまう少数派的なところも二人は表わす。しかし、日本的なのび太ではなく、逞しく生きるいじめられっ子を表わすアメリカン スピルバーグに比し、イーストウッドはアメリカン的に全く“平等”の精神のもとにマイノリティも誰しも彼しも表わす。スコセッシと同様にイーストウッドもまた、善悪の矛盾が混合されるヒューマンを表わす。しかし、スコセッシの主人公や人物たちに表わされる贖罪とは違い、イーストウッドはそこにおいてもアメリカンな平等を表わしている。ラスト・クレディットの少女像に表わされる天秤にそのこと表わされる。スコセッシの場合だったらそれを慈愛と称するだろうけれど、イーストウッドはそれをヒューマニティと呼ぶのである。善も悪も人間であるのならイコールにそれは在る。
なんだかヘンな作品の印象を持ってしまっていたけど、今回は清々しさを観賞後に残した。
P.S.
イーストウッドのインタビュー集において、『真夜中のサバナ』に関して、編者は、冒頭に表わされる少女像は、善と悪、真と偽、などの両極にあるものを、いたずらに頬笑むと言っているが、なるほど、そうした見方は、あの作品の魅力を伝えるな、と思った。『ミスティック・リバー』もまた、現代にある様々なイシューを合理的に考えさせていくだけではなく、世の中の不思議さにも充ちて捉えるセンスがある。そうしたオカルト的な魅力が、イーストウッドにはある。
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