狂気の行方
セヴィニーの起用はハーモニーコリンからの流れかのような、このテクストにはアメリカ中産階級の歪な形象が表される。リンチのようにシュールに誇張されるのではなく、或いはクローネンバーグのようにミュータント変形化させるのではなく、アメリカンなテックスメックスやメロウな音楽を出しつつ、あるがままを真摯に汲み取ろうとするところがヘルツォークらしさである。
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伝道師や神と言うマイケルシャノンにホドロフスキーが重なって見えてしまう。キンスキー亡きあとヘルツォークが求める人間の不思議はホドロフスキーにあるかのように、そう感じられてしまう。しかし、ピンクフラミンゴにサボテンの楽園はラテン的であっても、マイケルシャノンによって肉体化されたブラッドは冷血的であり、ジャーマンにレイシオナルでヴァイオレントだ。オレステイア的な母親殺しは、ウィンディングレフンは実は、ヘルツォーク経由でホドロフスキーを見たのかと錯覚するのである。
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母親の否定は成長の否定か。或いは、チャレンジをしなかったことから生までた悦楽か。世界は主人公によって否定されている。オレスティアを否定するように、彼自身が生まれてきた子宮を否定するかのようにである。
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フィルムでのストッップモーションではなく、身体的に表されるストップモーション。様々に表されるそれは中産階級を表現する。或いは、彼を取り巻く世界が彼自身に瞬間として感じられるエモーションがそこに表される。
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観客席でセリフを大きな声で喋る彼はもはや、コロスが語る宿命の外にいるのである。そして彼は、彼が劇場で行った所作とは裏腹に、宿命から出たがっている。なぜ皆が、山が、彼自身を見つめているのかとブラッドは言う。彼は宿命の外にいたいのである。しかしながら、それはできることではない。ペルーの通りで出会う様々な顔がそのことを我々にも語りかける。
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ヘルツォークには時々、呑気なムードがもたらせられるところがあるが、ここでは最終盤のダチョウとのどかな音楽によってそれが表される。呑気であるが、悲しさを表している。
P.S.
爽やかなものではないけど、青春の1ページ的なもの感じられ、おもしろかった。言われるほど駄作には思えなかった。ラスト、バスケットボールを少年が持っていくところは、なにかトボけていて、なんとなく救われる。
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