★『スリー・キングス』メモ
*ラッセルは常に、現実拒否者たち、そして善き山師たちを表わす。
*セレブレーション:現在からは考えられないが、ベトナム戦争という亡霊を払拭できるかのようなセレブレーションが表わされているかのような冒頭である。しかしそれはパタフィジックな世界として表わされる。
*プレイブックと同じように、暴力的世界に囲われた人々が表わされる。ラッセルはそれを時には笑い飛ばし、時には悲しむ。プレイブックは日常に在る暴力的世界であるが、スリーキングスは非日常である。女性ジャーナリストを置くことにより、日常と隣接する暴力的世界を表わすと同時に、泣き笑いのフィクションを表わす。ラッセルはリアリティのパスティーシュをパタフィジックな世界として表わすのである。
* 三人の賢者は西洋の思考の誕生を祝いそれをつくった者たちなのであり、スパイクジョーンズも含んだ4人の主人公の誰がスリーキングスなのではなく、三人の賢者という謂いが再び中東にもたらせられることが表わされる。
*トロイを尋問するアラブ人もアメリカで教育を受けた者である。 → 思考的近親相姦。スパイキング ザ モンキーは近親相姦が表わされたが、スリーキングスもまたそうしたことが表わされる。
*白人化したマイケルジャクソン
*くだらない消費文化
・ ジーンズ
・ 電化製品
・ クルマ
*智慧のセレブレーション ← 三人の賢者
*アンチ思考的近親相姦 → 通過儀礼的
*隣人愛としての超越 ← けっきょくのところ、ハリウッド映画の自負。
*アメリカ自身の通過儀礼であるが、けっきょくのところ、「隣人愛」というアメリカン思想を得るための、てめえ勝手なハリウッド映画の自負心に終わっている。ハリウッド映画だから、しょうがないか。
*だけど、おもしろかった。
P.S.
けっきょくのところ、ハリウッドのパターンに落ち着いてしまったとは言え、「隣人愛」は「眼には眼を」よりいいには決まっている。「眼には眼を」とは言っても、どんな世界においても成されるわけであり、思い遣りもまたドグマがどうとかのことで成されるのではなく、人であるのだからその関係性においてどの世界においても起こりえるものである。隣人愛は本能的なものであり、普遍的なものだ。
思えば、フォードやキャプラより遥か以前の、いにしえのハリウッド映画から「隣人愛」はアメリカ国内外に最大に影響を与えたものである。ノーベル平和賞がアメリカ映画に生涯功労賞を与えてもいいぐらいに、世界中の人々にマインドコントロールしているのではないかという感じである。
実際のところ、思い遣りだけではなく、人は種族繁栄のため淘汰も成されるわけであるが(グリフィスの『国民の創生』は隣人愛の叙事詩であると同時に、淘汰という恐ろしい出来事も我々の眼差しのなか現前してしまう。クークラックスクランがヒーロー的に暴れ回る)、『スリー・キングス』はアメリカの良い面だけを表わしているとしても、人として本能のあるべきものが表わされている。
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