ゴダール、パゾリーニ、ベルトルッチにおいて、資本主義化する経済社会におけるイシューは、“戦後”ではなく“近代”における課題としてのそれなのであろう。封建制度はなくなるも、市民社会が向き合う現状において“対立”はなくならない。「関係」性が共生を導くものなのであれば、人間性に潜在する課題はアートにイシューされる。植民地(→ ポストコロニアリズム)、、 観念の覇権、第三世界の異議申立、自由というコンセプト。工業化(← 西欧的合理化)、、人間性の本質、自然のあわれ、分業化社会にはない共有性。未だ在る課題。
スコセッシとリンチは“近代”の産物であるアメリカをイシューとする。近代を問うという意味において、彼ら5人もまたシュルレアリストなのである。パゾリーニはイズムにすらにも敵対する。イズムもまた彼にとっては“近代”の産物なのであろう。彼はそれにムズムズしてムカついて、プリミティフなる永遠を模索していたのかもしれない。人間を写し取り、それは想像を表わさんとすることであり、人間性の本質に志向する。対立ではなく本質の愛を求める。自然を捉え表わさんとするパゾリーニに比し、ゴダールは考察者であり科学者なのであろう。系譜に沿いながら、或いは、パリコミューンをもたらしたフランス人としての自負からなのか、そしてまた、文化的に弁証法に立脚した西欧の思想家たらんとするからなのか、はたまた、当時のモード的に知の考古学の認識論者とあろうとしてからなのか、彼は“近代”の中に棲まいながらにして市民社会を民族学的に考察し科学する。万事快調に勝手にしやがれ。
一方、ベルトルッチは“観念”を思考する。彼こそがもはや戦後ではない時代に(或いは、だからこそ)観念やイズムにもはや翻弄されるでない「人間」や「人間性」を捉えようとしているのではないか。20世紀は未曾有の人災がふりかかる。新たなる人災は天災ともども、戦争を離れようともニューイズムとともにいまも明日も現れてくる。それを見つめ再志向するために、ベルトルッチはその外に生きん。
スコセッシは“力の意志”を表わさんとする。ルサンチマンながらもヒューマンの意志をデペイズマンしてみせる。リンチはよりデカダンである。しかしながらも、『ロストハイウェイ』の主人公のように、そこにのみ込まれながらもギリギリに反抗する主人公が表わされる。それはまた、『レイジングブル』に表わされるように、スコセッシの“力への意志”にもまた通じるものである。あまりにも幻想的である。と同時に、ときには儚くもある。超人は、ときには本当に、そしてアメリカンドリーム的に、ヒューマンなのである。
宇多田ヒカルは歌う、いっつおーとまてぃっく、抱きしめられるとパラダイソにいるみたい キラキラまぶしく目をつぶるとすぐ あいふぃーるそーぐっどぅ、いっつおーとまてぃっく。パゾリーニはタナトスとしてではない原初の欲望に回帰し、ゴダールはエロスのロゴスを未だ求める。ベルトルッチはイデオロギーを生む人間の本質をイストワールに描き、スコセッシとリンチは超人をヒューマンにシュールする。未曾有の人災は天災をも導くこのときに、五人の天才は“近代”を語らしおん。写し取られるこの時代は、苦しみに描かれたドラマであり、人間に潜在する共有の夢を追い続けているのである。夢にはかつてヒトが共有してもっていたモノが描かれている。しかしながら、自身のなかの分裂がいまだ終わることがない、未曾有の日常は続いているのである。なーんちゃって。
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