感想文(1)
浅間山荘事件があったのと太陽にほえろが始まったのが1972年でしょ。そして、戦争を知らない子供たちが流行ったのが1970年でしょ。この子供たちを“戦後”は確かに知っている。
つづく
感想文(2)
『鍵のかからない部屋』において、観念は戦争とともに死に、肉が遺る。死の匂いが新鮮な肉に香る。少女は実は、異様なお手伝いさんの子供。母親に表されるポストモダンが受け継がれているわけではなく、実は戦時を引きずる異様なもの。少女は戦争時の幻影を引きずる亡霊である。或いは、只単に、奇怪なもの。純粋にして、不可解。不可知な聖域である。
ミシマの終末感は変幻自在のイマージュに富む。空(くう)には一切合切の煩悩を取払い、無心に願う/想うものが表される。『鍵のかからない部屋』の房子も『橋づくし』のみなも不気味にも愛らしくにもどちらにも見える。主人公たちは彼女たちを不可視し不可解に感ずるが、彼女たちは不吉な存在なのではない。戦時が憑依する“戦後”という亡霊なのではなく、彼女たちは空(くう)なのだ。それは『金閣寺』の主人公が魅了される寺にも言えることだ。空(くう)の真っ新に、我々のイマージュが表される。
そうした女性たちに比し、主人公は、願い事や想いをフェチるとき、煩悩を拭い去ることができない。彼らは無秩序であり、理性をもつことができない。ミシマはそういった彼らを肯定しているのだろうか。観念と肉の間を揺れ動く。
揺れ動きながら一方で、女性たちは純粋に不気味な存在である。主人公には見透かすことができないものを持ち、そして廃頽の存在である。主人公はそうした廃頽の状況だからこそ、想いをフェチりイマージュすることができる。登場人物たちと同様に、戦後の我々のイマージュは可能性的に夢幻にして無限である。観念と肉の間を揺れ動く。
『潮騒』のハツエは房子とみなと同じように、聖域に生きている。彼女が住む神島は、絆は存在する。生き残っている。男たちは絆を繋ぎ止め、空を生みたい。『潮騒』のシンジは荒波に飛び込み、舟を繋ぎとめる。『炎上/金閣寺』のミゾグチは舞い上がる金粉を空にみる。繋ぎ止めれない女たちは『橋づくし』で夢遊する。しかし、その夢想ですら空には受け入れられるものに違いないのである。『鍵のかからない部屋』の児玉一雄は無気力と虚栄心に生きているように見えながらも、空に、最初から生き存える。
生の勢いは死の覚悟をもって臨まれるのだが、その時代の若人たちはそれを「ナンセンス」と言ったであろう。まさに、そうした無秩序を、ミシマは内側にもっている。戦後に措ける定理のゼロに、傷は絆として在る。
『狂った果実』のハルジはまるで特攻隊のようにぶつかり、敵を沈めるかのようである。太陽族とは“戦後”をギラギラに生きねばならぬ者たちなのか。“戦後”の太陽もまた、日の丸につながる。『太陽に吠えろ』において、ボス石原裕次郎以下七曲署が吠える対象である太陽とは、悪とか権威とかを言うというより、世の中の不条理が表される。アメリカに骨抜きにされた日本の不条理である。 “戦後”といったなにか、不可解なものが事件を通じて表されるわけだが、どおりで、松田優作が何じゃーこりゃーと雄叫びをあげるわけである。ジーパンもマカロニも、ヤマさんもゴリさんも、テキサスもスコッチも、そしてブルースも不可解な“戦後”を足をつかって捜査していたのである。
不条理を抱え込んだ若者たち太陽族は“戦後”という亡霊に憑依する。『処刑の部屋』の主人公は、当時から流行りのアンチヒーローなのだろうけれど、イシハラはそんな横文字使うなよと言いそうだけれど、ヘンにアメリカンナイズされている彼はカタカナならOKとヘンな理屈でOKするだろう。アンチヒーロー、“戦後”の歪な大和魂いだく者たちよ、それが太陽族なのか。カタカナの卑しさを兼備えた大和魂を、イシハラはジャーナリスティックな語り口で表す。ルポルタージュする眼差しのなか、『ファンキー・ジャンプ』のマキーも『完全な遊戯』の男たちも恍惚へと向かう。マキーも『処刑の部屋』のカツミも、亜米利加となった日本のなかで大和魂- スピリットでもソウルでもなくタマシイである –をあらわす。『完全な遊戯』の男たちも『狂った果実』の太陽族も合理化社会に退屈し、馴れさせられている。亜米利加が棲む。
そして、女たちがいる。女たちはオトコのロマンを理解できない者たちである。『ファンキー・ジャンプ』の摩耶も『完全な遊戯』のオンナも、或いは『処刑の部屋』の若尾文子(彼女はウェーバー論者か史的唯物論者かどうかに関わらずイデア論者である)も『狂った果実』のエリも、アマテラスであり、それと同時に内面に浸食する(亜米利加というより)“戦後”である。不可視の象徴は大和魂にとっては不気味な存在でしかない。彼女たちは不条理をただすでも、ロマンを分かち合うでもない。そうでありながら、時代々々の大和魂に、深く重くのしかかる忘却不可能性をもつ。“戦後”という亡霊が主人公たちに深く根差している。浸食する歪が根差している。アメリカは日本に棲んでいる。
そして、そこで問題となるのは知の体系であり、美しい國を解釈する際の権威とはなにかというイシューである。異臭はそこに漂うのである。カワバタの雪月花は"戦後"に歪んだのか。モノ/マテリアルの探究は歴史認識の可能性を表す。
つづくかもしれない
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