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2018年07月26日01:23

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本史関ヶ原111「後巻きを崩せるか?」

○「本物の手紙史料だけで読み解く関ヶ原合戦」でしたけど、今は創作の作業中です。だから今度もまた「ありえない展開」を創作します。だって、関ヶ原合戦は「関東側が関ヶ原方面へ進出して、そこで石田たちと戦った」のが実際であって、「南宮山に出ている吉川たちと戦った」のではないからです。それでも「吉川たちと戦うなら、どうやるのか」を創作しておく必要性。十二日の時点で豊臣軍団は「南宮山の後巻きと戦うつもりだ」と手紙史料に書いてあったからですね。

○シチュエーションを固定するため、相川で先陣を務めるのが福島軍と仮定しておきます。その正面、南宮山の東の山すそに布陣するのが吉川軍と、これも仮定です。福島軍が「どのように仕掛けていくか」を考えるとき、今度は「吉川広家の視点」に替えて、敵が「どう攻めてくるか」を考えます。前にも書きましたけど、常に「自分がどう攻めるか」を考えるから「攻める合戦」になるんですよ?

○詳細は繰り返しませんが、吉川の正攻法は「西へ行く道の全部を塞ぐこと」でした。すると福島軍は「どこを攻めてもムダ」なので、攻勢を諦めて、撤収することになるはずです。そうやって「敵が退却するところを追撃で叩く」のが正攻法。しかし敵が後ろに下がって、杭瀬川の部隊と合流するならば、追撃する吉川軍は「相川を渡らねばならない」んです。それについて『孫子』は言います「水の内においてこれを迎うるなかれ。半ばわたらしめてこれを撃つのが利」と。

○そもそも敵は、三キロも向こうの「相川の対岸」にいるんです。敵が引くのを見て、強行行軍で追撃しても、三キロを進むのに三十分もかかります。そのころ敵が、二キロも行かずにモタモタしているとして、さらに吉川軍が「相川を渡って追撃を続ける」のなら、川を渡り終える前に、ここぞと敵は向きを変えて、一気に攻撃をかけてくるってことなんです。途端に吉川軍は「背水の陣」になってしまうわけ。一般的には「退路を絶って、死にものぐるいで戦うことで、勝利を得る必勝法」と思われちゃっていますけど、逆に『孫子』は「敵が川を渡ってくるなら、半数ぐらいが渡るまで待って、叩いてやれ。すると逃げることもできなくなるし、戦うにも兵力が半分しかない」と言っているんです。つまり「敵を背水の陣にしてやれば、簡単に勝てるのだ」と『孫子』は言っているようなもの。

○というわけで、相川の福島軍が下がるとき、一旦は真後ろに引いて「杭瀬川の部隊」と合流するでしょう。けれど吉川軍は、それを追撃できませんので、動くべきではありません。ならば福島軍は、次にどう動くでしょうか?「城を巻く」のをやめて、全軍が撤退するとして、そのとき、北へ出て「赤坂の部隊」と合流するのか、それとも南へ出て「南の部隊」と合流するのか、どちらをとるでしょうか。北へ出るなら、岐阜城から後詰めが支援に出てきます。南なら竹ヶ鼻城から後詰め。どちらの道で撤退しても「揖斐川を渡る」ことになりますからね。よって吉川軍は、下がる福島軍を「追撃できない」ってことになります。また、敵が北へ出たときは南の部隊を、南へ出たときは北の部隊を、要するに「合流しないで残っている部隊」を狙っても、距離がありすぎるので追撃は無理そうです。追いつく前に、敵は揖斐川を渡ってしまうでしょう。ゆえに吉川軍は「敵が引いて、大垣城の救援ができれば、それでよし」とするのが無難なところという感じ。

○問題は、ここからです。吉川軍が「敵を追撃しない」と決めてしまえば、福島軍のほうでは何を仕掛けようとも、何もできないことになります。しかし「勝つべきは関東側にあり」なんです。なんとかしないと「丹後救援ができない」んです。とはいえ、引いてもダメなら攻めてもダメ。だったら福島軍は、どう動く?

○簡単なことなんです。引いてもダメなら引かなきゃいいし、攻めてもダメなら攻めなきゃいいだけのこと。ちょっとした発想の転換なんですよ?「大垣戦を継続したまま、美濃から越前へ出ればいい」ってだけの話。狙うは敦賀城です。ただし、それができるだけの余力があるならば。

○これで「重要ポイント」に話がつながってきましたね?「徳川軍が来るのかどうか」って話です。せっかく黒田長政が、吉川に「家康公は来ます」と教えてあげたのに、吉川は「戦争から手を引く」どころか、最前線の後巻きに出てきたんです。少なくとも「黒田の情報」に対して半信半疑なのだと思われます。もしも本当に「家康が来る」とすれば、関東側の兵数は「充分な余力がある」ことになって、ならば「城を巻いた状態」を続けたままで、さらに兵を越前へ回せるでしょうね。しかし大坂側は、どうですか?「越前へ出せる」余力がありますか?

○なんのために、史料精査から始めて、二年近くもかけてデータ解析をしてきたのか。そこまで手間をかけて「定説で語る話」を潰してきたのは、なぜなのか。それこそが「ここでの兵力数の確認」なんです。動員兵力数が確定し、布陣の位置が確定しなければ「合戦展開」なんて実際にわかるわけがないんです。大垣戦だけを見るならば、大坂側の対応兵数に不足はありませんが、このうえ「越前で包囲戦が始まるなら、大坂側は対応しきらなくなるんですよね。現に「前田軍に包囲されている小松城」は、ほったらかしのようなもの。小松城の丹羽長重は、困りきって「家康に講和を願った」くらいじゃないですか。よって吉川としては、大垣戦に出す兵数も、できれば最低限に抑えておきたいはず。最悪の場合は「越前の対応へ回せる」ように、余力を持っておきたいはず。するとほら、例の疑問点「なぜか中仙道があいていた」につながるってわけなんです。「稲荷山に兵を配置して、全部の道を完全に封鎖すると、もしも関東側に余力があった場合、越前が攻められるうえ、後巻きに出せる兵力が足りなくなる」ことになりますが、けれど稲荷山に兵を置かなければ、その分を余力で温存できますよね?

○さあ。これで「現場」の条件が一つ見えました。稲荷山があいている。中仙道が塞がれていない。この条件に変えてみて、関東側の行動を廟算してみましょう。
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