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2016年04月27日23:27

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関ヶ原史料「佐和山落城」戦後一二三号

○関ヶ原決戦の勝利報告は、もちろん各地に送られているでしょうが、『日本戦史関原役』が収録するのは一通だけです。家康の伊達政宗宛て、九月十五日付。

●手紙一〇九号「今日十五日の昼どき、濃州の山中にて一戦し、備前中納言、島津、小西、石治部の兵団、ことごとく討ち取りました。すぐに佐和山まで今日着馬。大垣も今日、ただちに取りました。御安心ください。ますますそちら方面の状況は、御処置が大事です」

○伊達政宗の事績記録からの採録で、原本史料ではありません。戦闘の詳細も書かれていませんし、真偽の判断も難しいのですが、それでも気になる記述が三つあります。まず一つめは「昼どき、濃州の山中にて一戦し」です。原文は「午刻於濃州山中及一戦」で、この書き方の場合「戦闘の開始が午刻」の意味になるのが普通なんです。定説の語る展開は「早朝から戦闘が始まって、午前中は一進一退の激しい攻防戦が続き、正午すぎに小早川の裏切りで勝敗が決した」ですけども、それと違っているうえ、実を言えば「正午になって戦闘衝突」のほうが自然な展開なんですよね。そして二つめは「佐和山まで今日着馬」の記述。西軍から寝返った小早川軍などが、佐和山城へ攻め寄せたことは語られていますが、「その日のうちに家康も布陣した」という話は聞いたことがないように思います。しかしこれもそうで、次の佐和山城へ即座に進出するほうが自然だと言えます。加えて三つめが「大垣も今日、ただちに取りました」です。後ろに残った大垣城など、定説では気にもかけていませんが、後始末をしておくのは当然なのだし、しかも原文は「則捕候」で、大垣城は降参したと見られる表記です。こういった細かい点で、とても自然な感じのする内容なんです。

○次の手紙も宛名は伊達政宗です。書いたのは「家康の次男」結城秀康で、日付は大きく跳んだ九月二十八日です。しかしこの手紙には「十七日の情報」が書かれています。秀康は関東に残っていて、宇都宮にいると見られますが、関西からの手紙が秀康に届いてきて、それを秀康が政宗に報せていることになるわけです。

●手紙一二三号「わざわざ使者を出して申し伝えます。去る十七日に、佐和山へ山中から攻め寄せて、ただちに乗っ取りました。右手に田中兵部が布陣し、攻め落としました。内府殿は、石川左衛門大夫が手柄だったとしています。石田木工の父子、治部の父、治部の妻子、自害しました。天守に火をかけたのです。上方から、あれ以来なんとも言ってこなかったので、いかに御心もとないことでしたでしょう。さてさて、さっそく出ていくべき状況なのですが、内府から固く命じられているので、困っております。先日の御飛脚を、こちらに留めておりますのは、上方の返事次第というところ」「繰り返して申しあげておきます。少しも油断ではないのです。神八幡も、延引とあっては迷惑千万でしょうね。詳しくは使者に話してあります」

○これも一〇九号に同じ、伊達政宗の事績記録からの採録。真偽の判断に迷う手紙です。文中の「山中」とは、関ヶ原のあたりを指す地名と見られ、一〇九号にも書いてありました。「十七日に佐和山城へ攻め寄せた」のではなく、山中から攻め寄せて「十七日に佐和山城を乗っ取った」と理解すべきでしょうね。「田中兵部大輔吉政が攻め落とした」のは、おそらく外郭を破ったぐらいのことで、すると石田三成の親族たちは「天守閣に火をかけ」て「自害した」ということのようです。このように理解すれば、おかしい記述ではありません。反逆首謀者の親族であれば、降参しても命の保障はありませんからね。降参を拒んで自害するのも自然です。「佐和山落城」については、問題のない範囲です。

○疑問を感じるのは後半です。「あれ以来なんとも言ってこなかった」とありますが、政宗のところには「家康が清洲から発した手紙」などが、いくつも届いていたようです。政宗の手紙「一二五号」を本物だとすれば、そう書いてあったわけですし、もちろん一〇九号と同様の「関ヶ原戦の大勝利」を伝える手紙は、秀康にも送られているのではないでしょうか。一二三号に「十五日の勝利」と「十七日の落城」とが合わせて書かれているのなら、「あれ以来なんとも言ってこなかった」が信じられるのですけどね。なお、秀康は「佐和山も落ちたし、あっちはもう終わりで、今度はこっちだ。すぐにも出陣するべきだけど、命令があるまで動くなと固く命じられているので、出られないんですよ」という意味のことを書いていて、「だから先日に来た飛脚は返してないんです。命令が来たら、すぐに報せます」と言っているようです。つまり、政宗から「秀康様の御出陣を」と言ってきた手紙があるってことですが、二十九日付「一二五号」に「秀康様に出陣すべきだとお伝えください」とあって、繰り返して言っているようすはないのに、一二三号は二十八日付なのです。どうも矛盾を感じて、偽書っぽいんですよね。よって佐和山落城の状況についても、疑ってみるべきなのかもしれません。
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