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2016年03月22日02:04

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関ヶ原史料「偽書の愚将」決戦前一〇四号後

○もう一回分、お付き合いくださいませ。石田三成の増田長盛宛て、九月十二日付。冒頭もダメなら中ほどもダメ、最後までダメでしかない偽書史料ですが。

●手紙一〇四号後「たびたび申し伝えているように、金銀、米、銭、与えるのなら、このときです。私なども、それらしくもなく、手にあるだけを、このあいだ出しました。人手も求めていますので、こちらの逼迫を御推察ください。なにしろこのときで決まると思いますので、そちらでもそう心得ていてください」「江州から出てこられた者たちの状況は、何かと不慮のこともありうるだろうと思いますし、これだけが悩みです。輝元の御出馬がないのなら、佐和山の下に中国勢を五千ばかり置いておくべきことが、重要な処置となります。どうも勢州から出てきた者たちは、帰りに大垣から佐和山への通路を気にせず、万一のときは太田や駒野に出て、畑の中を江州へ通っていくつもりではないかと思われますので、長引くのではないかと思うのです」「備前中納言殿は、このたびの覚悟、さすがの御手柄は言うまでもないことです。このことは諸方からも聞こえてきますでしょうし、言うまでもないでしょう。一命を捨てて、御稼ぎになる感じです。だからこそ、御理解が必要というもの。羽兵入も小摂も同様です」「当分は御成敗もない人質の妻子は、宮島へ行かせてしまうべきでしょうか。あまりお気になさらずに」「このたび勢州方面で働いた者、中国は言うまでもなく、そのほか長大、大刑、それから御弓や鉄砲の衆も、長大と安国寺が一手に抱え込むように思われますので、大人数は動きえません。兵数も少々、足りない感じです」「丹後のこと、手があいたそうですので、少しでも、世間の聞こえもありますから、あちらへ出ていた者たちを、こちらへ回してくださるように願います」

○全体的に訳しづらい文章ですが、後半は特にひどいです。「何が言いたいのやら」と思っちゃうほどですね。ともかく「兵が足りないから、丹後に出している部隊を、こちらへ回してくれ」と言っていることぐらい、なんとかわかるのみ。

○備前中納言宇喜多秀家、羽柴兵庫入道島津義弘、小西摂津守行長、そして長束大蔵大輔正家と安国寺恵瓊。彼らは「西軍を裏切らなかった」とされている者たちですね。この手紙でも、彼らを「信用できる者」と言っているように見受けられます。一方で、「江州から出てきた者は、不慮のこともありうる」と言うのです。それから「勢州から出てきた者」というのは、吉川広家、毛利秀元を指しているのでしょうか。大垣城には合流せず、南西の南宮山に布陣したとされ、決戦時にも「裏切って動かなかった」とされている者たちです。手紙の記述は意味不明ですが、「彼らは積極的ではない。そのせいで戦いが長引きそうだ」の意味になるみたいな感じです。また、中盤には「諸士の心が揃うなら、敵陣を二十日のうちに破ることなど、どんな方法でも容易であろう」の記述がありました。ここから判断する限りでは、「あとから来た者たちが、さっさと協力してくれれば、戦う気もない敵など簡単にやっつけてやれるのに、やつらがのんびりしてやがるのは、敵に内通していて戦う気がないからだ」と「三成は考えている」の意味なのだろうと思われます。しかし「孫子」には、こういう文章があるのです。「上兵は謀を討つ、その次は交を討つ、その次は兵を討つ、その下は城を攻む。攻城の戦法は、やむをえないからすることである」…。

○籠城とは「敵に下策の城攻めをさせること」なのです。だから現に関ヶ原の合戦でも、家康は大垣城に攻撃をせず、関ヶ原に出て「兵を討つ」手段を取ったではないですか。城を攻めるよりも、野戦で兵を討つほうが上策であると「孫子」が言っているとおりなのですよ。ゆえに「この手紙の石田三成」は、「自分のほうが城を出て、敵陣を攻めてあげて、敵が下策の城攻めをしなくて済むようにしてあげたいのに」と言っているようなものなのです。前半に「敵は赤坂に布陣するだけで、何もせず、何かを待っているようだ」と書いてありましたが、実のところ、「こちらから城を攻めずとも、敵の愚将が強気になって、自分から城を出て、攻めてくるのを待っていればいいのだよ。そうすれば兵を討てるのだから」というのが「孫子の基本的な教え」なんですね。すなわち「待つ」のが包囲布陣の初歩なんです。もちろん、そんな初歩も知らない愚将であるのは「この手紙の石田三成」なのであって、「本物の石田三成」は「敵陣を攻めなかった」し、包囲する豊臣軍団も「城を攻めなかった」わけじゃないですか。互いに対陣を続けるのみで「戦闘がなかった」という「現実の結果」だけを知っていて、その理由を理解できなかった「合戦を知らない世代の人たち」が、いろいろと理屈を考えて作った偽書の典型例なんです。でも、同様に「合戦を知らない世代の人たち」は、これらの偽造史料を真に受けてしまうんですね。そうして、さらに物語が作られるのです。たとえば、決戦直前の「このころ」に起こったとされる「杭瀬川の戦い」も、後世に付け足された創作だろうと思われます。だって、城からの攻撃を「待つ」のが包囲布陣である以上、籠城の基本は「攻めたくなるのを我慢する」なのですよ。もしも大垣城にいた西軍諸将が、基本も守れず、我慢もできず、すぐに攻めたがる「素人レベルの愚将」だったなら、関ヶ原へ誘い出す駆け引きもないまま、大垣戦で勝敗が決していたことでしょうね。ゆえに真の問題点は、なぜ「史実の石田三成」が、最後に「城を出る」選択をして、「兵を討たれての敗北」になったのか、そこなのです。そこにどんな駆け引きがあったのか。
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