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2016年03月04日23:12

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関ヶ原史料「岐阜落城の裏で」家康出陣五九号

○時間が大きく戻りまして、八月八日付の手紙です。家康が書いたもので、宛名の石川貞清は、愛知県の北部にある犬山城主でした。

●手紙五九号「先日に飛脚が到来した際、返事を書くべきだったのですが、飛脚がそのまま帰ってしまったので、それができませんでした。あなたがた兄弟は常に友好でしたから、ますます連絡もなしでいるのはいけないと思いました。詳細は田中が伝えるでしょう」

○この手紙をここで出してきたのは、『徳川家康文書の研究』に関連の手紙が載っているからです。家康が石川貞清に宛てたもので、江戸を出陣後の九月四日付。

●家康の石川宛て「両人がたへの御手紙を拝見致しました。それは、このたびの不慮のことはしょうがない状況だったもので、日ごろの御好意を思われて、忠節があるとのことでしたから、満足です。詳細は田中が伝えるでしょう」「追伸。古織への手紙も納得しました」

○木曽川を渡るのに最も便利な場所は中仙道です。戦国当時から、岐阜県の可児市と美濃加茂市のあいだを船橋でつないでいる「太田の渡し」がありました。清洲城から岐阜城へ大軍を向かわせる場合、たとえ遠回りでも「太田の渡し」を経由したほうが確実だと言えます。ただし、清洲城から太田へ向かう途中に犬山城があるわけです。このあたりは南東に山が迫り、北西に木曽川が横たわり、狭くなった地形であるため、犬山城が敵対していると、通行が妨げられてしまうのです。井伊直政と本多忠勝が前哨戦の報告をしてきた「手紙七七号」には「前から申しあげているように、犬山は御味方の様相です」の文章がありました。原文では「兼て如申上犬山は御味方の体に候」です。だとすれば、「犬山城主の石川が、はっきりと味方の表明をしていないため、太田経由の進軍は見合わせたが、敵対行動も見せないので、あからさまな対応策はとらなかった」の意味となりそうです。結果として石川は「敵対する気がない」ことを報せてきた模様。さらに関連して、加藤貞泰と竹中重門に宛てた家康の手紙があります。九月三日付。

●家康の加藤と竹中宛て「二通の手紙を拝見致しました。よって、前からの首尾に相違はなく、忠節のこと、大変に感激です。今日三日、小田原まで来て出馬致しております。急速にそちらへ着陣するつもりなので、ますますそちらは精を出されることが肝要です」

○加藤貞泰も竹中重門も、岐阜県内に領地を持っていた者たちです。このときは自分の城を離れて、犬山城の守備に加わっていたとのこと。石川も含め、「西軍に属していたが、東軍に寝返った」とされています。しかし、これらの手紙を読みますと、実は「初期段階から徳川と連絡を取っていた」ことになるわけです。さらにもう一つ、家康が加藤貞泰に宛てた手紙があります。九月五日付。

●家康の加藤宛て「なんとも念入りなお手紙、大変に喜ばしいです。特に犬山のことは、あなたの考えによって早々に終わったことを、満足致しております。それからさらに、前線へ参陣されたそうで、納得です。今日、清見寺まで来て着陣致しましたので、すぐにもそちらへ着陣するでしょう。なお、そのときを期待しております」

○この手紙が本物ならば、加藤が石川を説得したことにより、犬山城は抵抗をやめて、東軍に寝返ったことになるわけですね。『徳川家康文書の研究』では、そのように解説しています。しかし興味深いのは、五九号の記述「飛脚が到来した際、返事を書くべきだったのに、飛脚が帰ってしまって、返事ができなかった」です。ここから考えられる状況として、「石川は、徳川に連絡を取ってみたのだが、返事がなかったので、徳川に味方するべきなのかを迷っていた。それを加藤が説得して、徳川の味方にさせた」となりませんかね?

○東西分裂の「天下取りの戦い」であれば、誰もが「豊臣に付くか、徳川に付くか」を判断したことになるわけです。だからこそ、優柔不断に迷った者や、ギリギリまで様子見をした者、途中で寝返った者などが語られていて、石川も「その一人」であるわけですね。けれども、「石田三成が真意を隠したまま、次第に戦況を拡大させていき、ついには徳川との対立に仕立てた」のならば、多くの者にとっては「寝耳に水の突発事態」でしかなかったはずなんです。最初は、何が起こっているのか状況が不明で、そのうえ東海地方の豊臣軍団は出陣中。きっと誰もが「状況の理解」に努め、知己を頼ってあちこちに問い合わせをしたことでしょう。「徳川を敵視していない」以上は、徳川に報告を送る者も普通にいたはずです。やがて大坂のほうから「徳川の悪評」が伝えられてきて、「関東からの攻撃に備えよ」と命令が出れば、石川のような「中間地帯の者たち」は、どちらの主張を信じるべきか、どちらの指令に従うほうが多数派か、判断を迫られることになるわけです。しかも当時は、電話もなければ郵便システムもありません。送った手紙が届くとも限らず、返事が来るとも限りません。果たして徳川家では、自分らを敵と見ているのか、見ていないのか。もしも敵視されているならば、開城しても「降参」扱いになるでしょうし、敵視されていなければ、「御味方に参陣」となって戦後の処遇が大きく違ってしまうでしょう。と、このように考えたとき、これら「犬山関連」の手紙は、まさしく彼らのギリギリの決断を示していると思われるのです。「結果として」誰が敵対したのかを「知っている」後世の者には、裏切り、寝返り、日和見といったネガティブな意味に思えるのでしょうが、それは「結果を知っている者の傲慢なモノの見方」なんじゃないですかね?
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