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2015年11月16日23:07

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関ヶ原史料「家康の戦争決断」東西分裂四六号

○家康は七月二十九日の段階で、大坂の奉行衆も敵対したことを把握したようです。それは当然「細川成敗」が発令されて、京都府綾部の別所吉治、京都府福知山の小野木公郷ら、丹波の大名衆に出陣命令が出たことに由来するはずです。奉行衆が「この命令」をどの程度の意味で理解していたのかは、ちょっと判断に悩むのですが、少なくとも家康は「敵対行為」と見ています。付け加えておきますと、兵庫県の明石で安国寺から「石田の企て」を聞かされた吉川広家ですが、そのとき聞かされたのも「細川成敗の話」であるはずなのに、それだけで仰天しているわけなのです。黒田如水から「合戦に慣れているのはあなたぐらい」と言われるほどの広家は、やはり「事の重大性」に気がついていたようです。それについては、もっとあとで書きます。まずは家康の手紙。最上義光宛てで、七月二十九日付。

●手紙四六号「強く伝えます。上方奉行衆、一同の者たち、戦争を起こしたとの報告があったので、会津のことは差しおき、まずは上洛します。それから、中納言は残していきますので、そちら方面の働きのことを相談してください。なお、あとで連絡できることを期待しています」

○前に書いた最上宛て「三七号」と比較しても、本物っぽい感じです。この手紙では、ついに「上方奉行衆が戦争を起こした」の言葉が出てきます。原文では「上方奉行衆一同之者鉾楯之由申来」です。「合戦」の言葉は戦闘衝突を指すことが多く、もっと広い意味で戦争を指す場合は「弓矢」とか「鉾楯」の言葉が使われるのです。よって、家康のもとに「丹後へ出兵」の情報が届いていることを示すのではないでしょうか。加えて「本物っぽい」と感じるのは、「一同の者」と書くだけで、ここでも「毛利の名前は出していない」ことです。大坂で軍事行動が始まったのなら、そこでは当然「輝元の代行権」が行使されていることになりますので、家康としても「見過ごせない」はずなのですが、それでも言わないのです。実は「毛利の問題」が、それほど大きな意味を持つのですよ。

○次は家康が、藤堂高虎に宛てたもの。七月三十日付。

●手紙四七号「手紙の詳細を読んだ。一昨日、細かく玄蕃に話しておいた。道を作る作業などは、万事、羽左太、羽三左、田中兵部と、なんでも相談することが大事である。そちらの状況が整い次第、上洛するつもりだ」

○この手紙は真偽の判断が難しいですね。あたりさわりのない内容でしかありません。だからこそ、かえって本物っぽいとも言えますけどね。藤堂高虎は豊臣の家臣でありながら、家康との関係が深かった人物です。ここに名前が出てくる羽柴左衛門大夫福島正則、羽柴三左衛門池田輝政、田中兵部大輔吉政は、豊臣軍団の中核をなす者たちで、「彼らと話し合って万事を進めなさい」と言われている高虎は、まるで「すでに家康の家来」みたいです。「家康公から、それだけ信頼されていたのだ」と言いたいがために、藤堂家の家史が載せていたのでしょうか。

○これで七月中の手紙は、関東に関して言えば終わりです。蛇足ですが、昔の陰暦に「三十一日」は存在しませんので、七月三十日の翌日は八月一日です。この時点で家康は、会津方面のことを息子の秀康と秀忠に任せて、自分は西進するつもりになっています。もちろん、先んじて豊臣軍団が、愛知県の清洲城に向けて進軍中です。ところで、石田三成は「自分の謀反の噂」を立てることで、計略を進めたことになるわけですが、その情報を聞くや「すぐさま転進して西へ向かった」豊臣軍団は、「石田の謀反を討伐する」つもりだったわけですよね。先年に石田の殺害計画を立てた七将のうち、ここまでに関東側で名前が出たのは、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、細川忠興の四名がいます。もしかして、石田って本当に人望がなかったのでしょうかね。彼ら四名は「三成なら謀反をやりかねない」と、本気で信じてしまったのでしょうか。だとすれば、それは石田の誤算かもね?
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