薬師丸ひろ子映画祭��
『セーラー服と機関銃』である。おもしろかった。本作の前には薬師丸の衝撃的デビューの「野生の証明」もあれば本作と同じ相米は「翔んだカップル」、そして大林は「ねらわれた学園」もあるけれど、本当の薬師丸ひろ子伝説は本作から始まったと言えるであろう。とにかくメガヒットだったとのこと。舞台挨拶も中止されるぐらいオーディエンスが詰めかける、とんでもない状態であったと聴く。それまでほとんどを大作の製作していた角川映画だけれど、その10分の1の製作費の本作が大作映画と同じぐらい、それ以上の興行収入となり、そこから角川映画はアイドル映画にシフトチェンジしたとのこと。数年前に初めて観たのだけれど、そのヴァージョンはたぶん完璧版と言われる奴かな、全国公開ではカットされたシークエンスが使われているもの。ワルのロリコン浜口が主人公を貶めるのを主人公の子分渡瀬と風祭が救い出すところとかあったけれど、本作にはそれがない。なるほど、オーディエンス対象は大人もいるがほとんど中高生やアラウンド20であろうから、そのシークエンスは若人にとってはちょいと生々しいのかもしれない(とはいってもカットされたシーンを復活させる要望はファンたちからあっての完璧版らしいけれど)。今回、前に観たときより作品に惹き込まれる。カットされているところもあるから上映時間は90分ぐらいだったのかな、と時間がアッという間の体験時空間なのだけれど、カットされているヴァージョンも2時間以上。おもしろいからアッという間に感じられるんだな。葬儀場で薬師丸と渡瀬がすれ違うショット、任侠映画にあるようなまだ知らないはずの男女のすれ違いが表されているのかな、となり、特攻隊は現在では専制国家に洗脳された出来事としてたぶん否定されるものだろうけれど、ラストのカ・イ・カ・ンは昭和前期の精神がまだある、死に際に散るの美学が表されているのかな、と観進めると、たしかに、フトッチョが言うような死と隣り合わせの快感もそこには表されているのかもしれないけれど、それよりも、薬師丸がついには口に出る「カ・イ・カ・ン」はエイティーズらしい己のしたいことだけをする、悪く言えばミーイズム、でもよく言えば、本質的衝動なんだな、とエイティーズを反映するようなセンスを感じ、時代カルチャーもあらわれているおもしろい作品なんだな、となる。相米お得意の長回しや仁義的絆(これは相米のテクストにも見られるもの)はなにか加藤泰を想起させるものあるけれど、そこには加藤とは違った相米独自の様式美が潜んでいる。DPは相米のほとんど作品によって変化があり同じヒトとばかりやっているわけではないけれど、本作品では仙元誠三、やはり松田優作は遊戯シリーズにも孕んでいるような緊張感が本作での長回しにはあり、そこには同時に絆をじっと捉えるカメラアイの存在(同じ長回しでもDPによっては暖かさが生まれるものもあればいろんな違ったタイプになるであろう。仙元誠三の場合は即物的。)が現れる。そうした様式美的魅力もDPによる個性の違いもあり相米マジックを彩りに成している。男と女のハナシではあるが、浜口にはじめて挨拶に行くときのシークエンス、窓のそばでショーパンで体操座りしている薬師丸、まだまだ子供であり、ブリッジする姿もそうであり、体力が有り余っているそれはチルドレン、でも、子分たちがどんどん殺られ、涙流さず向意気あらわるとき大きく生成する。見せる向意気、それは仁義でありミーイズムでもあり、そして衝動だ。様々な出来事が通過儀礼となり大人へと成長する。それでも、でもでもさ、変わらず最初からずっと顕れているものが在る。葬儀のあとぬぐう口紅、最終盤のキス、そしてワイルダーは七年目の浮気をオマージュするかのようなラストとそこでの赤いヒール。それらは主人公星泉の隠されない女性性を顕している。分散しながらまた集まる。カ・イ・カ・ンはそれを縮約しているのである。
ログインしてコメントを確認・投稿する