今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は、おもしろかった。ウィキッドと同じ日に観て、今日は寝落ちするだろうなという感覚だったので、こっちを先に観てもし寝落ちするならば、ウィキッドはシャキッと観れるだろう、という計算であった、のだが、こっちは見入ってしまうこととなる。ベンジー以来、久々に涙が出る。というわけはないな、ヤングフランケンシュタインでもウェディングバンケットでも赤ちゃん泥棒でもラストは涙が溢れたか。本作は号泣ではないけれど、ジワッと涙がラストの方に出る。とは言いつつも、時間を間違え、あらっもう始まっている何故?と、20分の遅刻。でも、予告編あるから10分くらいかな、見れなかったのは。萩原利久と彼の友人が学食で河合優実を発見するところあたりかな、観始めたの。エスタブリッシュショットも観てなく状況も分からない、でもって、大学生は分かり、どこが場所かな、となるも、風景から、あそこかな、となり、台詞で、やはり京都か、となる。萩原利久と河合優実が友人となるが、こんなに通じ合えるふたりとふたりは喜ぶも、私的には、こいつらとは友だちにはなれないな、と彼らの神経過敏、というか精神過敏なとこをテラーに感じ、もし仮になにかのきっかけでふたりと友だちにならざるえなくなったら、たぶんボクがノイローゼになるな、というような主人公ふたりである。ふたりが教室で皆から離れた席にいて、教室のザワザワ声のなかから会話が聞こえてくるが表され、感覚の切り取りなんだな、で、外でキンコンカンコンの音がふたりの感覚に届くとき、やはり感覚の切り取られがキーの作品なんだな、と確信にかわる。エンドクレディットはスピッツの音楽ではなく環境音であるのも、なるほどだからだな、となる。待ち合わせ場所に来なかったら連絡すればいいのに、となるも、後でなんだ番号知らないのかお互い、と分かるも、店に行けばいいのに、と思うも、この年齢に限らず日本人男性はプライド高く小心者、だからだな、と納得はできる。勝手に震えてろもエモーションをエッセイしている観だけれど、憂鬱感も交えている暗さはコミカルな震えてろとは違い、私をくいとめてに近い。こんなエッセイしているスタイル、かつて奇妙に思えた恋するマドリをいまは納得できる。萩原利久はこの平和ボケの日本なのに、或いはだからか、どうでもいいようにも思える、悲しみと不安を抱え歩くシーシュポスと化す。伊東蒼は明るい色どりを本作にほどこす。けれど、彼女も切ない。どこかでカットは入っているのだろうけれど伊東蒼の長台詞は哀しく、そしてあまりにも長くなると怖くなり、でもそれを通り越すと再び切なく哀しくなる、という奇妙な現象をもたらす。陰影にいる彼女、なにか黒沢清は回路の(影というより)黒い沁み、それも壁にエモーションがどっぷり沁みつきしているあのなにかに見えてくる。この長回しにコントラストされる最終盤の河合優実の長台詞(これはカットされ繋がれたものではないものであろう)、急速なズームイン、それから優しくされるズームアウト(その前の彼女の手紙を聞くときの途中ストップとてもなるほどなの間合い)、そして萩原利久の長台詞もよい。(途中に死というドラマはあるものの)コクるまでのハナシという、たいして凄いドラマではないけれど、なんだかヨカッタ。伊東蒼が明るく切なく、とてもヨカッタ。
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