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2023年12月02日21:16

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例会2日目�� 漱石山房記念館〜林芙美子記念館

(続き)

11/30(木)、大学時代の文学仲間の例会第2日目。

8:00、ホテルで朝食。バイキングの品数は多い。私は和食にした。
天井の高い立派なホールで、窓越しに大型彫刻も見える。

9:15頃、チェックアウト。
宿泊料金は2人で30,400円。これに3,000円のクーポンを当てた。

ホテルの隣が防衛省なので、ひょっとしたら道沿いに市ヶ谷記念館が見えるかと、駅とは逆の西方向へ歩く。
下は通勤時間の防衛省正面入り口。
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市ヶ谷記念館の大講堂は極東国際軍事裁判の法廷として使われた。但し1998年に移設・復元されたもので、元あった場所ではない。
このバルコニーで1970年11/25、三島由紀夫が自衛隊員に向けて決起呼びかけの演説をした。その後の顛末はご存知の通り。総監室のドアには、今もその時の刀疵がある由。
防衛省に事前予約すれば、係員が、この記念館を含め、大本営地下壕跡等を案内してくれる「市ヶ谷台ツアー」(2時間コースと2時間半の規定コースがある。自由見学は許されない。)に参加できるのだが、例会決定後に電話した時には既に予約が満杯だった。
せめて道から記念館が見えればと思ったのだが、防衛省はそもそも高い土台の上にあり、更に生垣が取り巻いているため、見えずじまいだったは。
やむを得ず、外壁沿いに進み、外苑東通りを北へ折れて、早稲田の漱石山房記念館迄歩く事にした。ホテルからは徒歩約30分。
事前の計画では、市ヶ谷〜飯田橋〜早稲田と地下鉄を乗り継いで行くつもりだった。

夏目漱石(1867-1916)は、1907(明治40)年から49歳で亡くなる迄の9年間、この早稲田南町の家で、鏡子夫人及び二男五女と一緒に過ごした。
木造平屋建て和洋折衷の家は「漱石山房」と呼ばれ、「木曜会」と称し、毎週多くの門人(*)が集まった。

(*)鈴木三重吉(木曜会の提唱者),森田草平,小宮豊隆,安倍能成,内田百��,寺田寅彦 他

漱石はここに移転した頃から文筆業に専念し始め、連続して名作を世に出した。山房で書かれた作品は『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『こころ』『道草』、そして未完の遺作『明暗』等。彼が文筆に費やしたのは、通して僅か11年程だった。

旧居は1945(昭和20)年の空襲で焼失。
漱石生誕150年の2017(平成29)年に、新宿区立漱石山房記念館としてオープンする運びとなった。
記念館には漱石公園が隣接し、富永直樹作の胸像といわゆる「猫の墓」(猫塚とも)がある。
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記念館は、彼の書斎と周囲の再現展示、そして漱石に関する通常展・特別展を行うスペース、漱石作品と関連図書を所蔵・閲覧するための図書室、講座室、ミュージアムショップ、カフェ等で構成されている。鉄筋コンクリート造り、地上2階地下1階。
下は再現された書斎。
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ちょうど展示スペースでは特別展「夏目漱石と野上豊一郎・弥生子」を開催していた。
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・会期 10/21〜12/17

今年生誕140年となる野上豊一郎(1883-1950)は、漱石が第一高等学校、東京帝国大学英文科講師時代の教え子で、木曜会等、漱石山房にも繁く出入りした。
彼は大分県臼杵市生まれで、同郷の弥生子(1885-1985)と学生結婚。
豊一郎は作家・文芸評論家・翻訳家となり、殊に能楽研究者として内外で名が知られている。
弥生子は直接漱石山房には出入りしになかったが、夫豊一郎を通して漱石に師事し、作家として成長していった。
漱石は弥生子の習作『明暗』に対し、1907(明治40)年1/17、合わせると5mにもなる巻紙2通で厳しくも実のある批評をしている。
弥生子は漱石の批評について、一生感謝の念を持ち続けた。
本展には弥生子の『明暗』原稿も、漱石の巻紙の手紙も展示中。総展示は約100点。
その後、弥生子は『縁』を「ホトトギス」誌(1907年2月号)に掲載されて文壇デビュー、同誌には漱石の推薦文も載せられた。

周囲の人との付き合いの中に、本人の本質が照射されて見えてくる事がある。
漱石の理解につながる良い展覧会だった。


このあと、早稲田から高田馬場へ地下鉄東西線で移動、更に西武新宿線に乗り換え中井下車。
落合の坂の多い道を歩き、12:00頃、林芙美子記念館に到着した。
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「四の坂」の角にあるモダンな記念館表示。紅葉の美しい記念館入り口。
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現在新宿区立記念館となったこの建物に、林芙美子は1941(昭和16)年から、47歳で亡くなる1951(昭和26)年迄住んだ。
芙美子は新居を建てるに当って、建築について学び、設計者や大工と参考になる物件を京都へ見に行ったりもして、思い入れは格別であった。
土間を挟んで東側を生活棟、西側をアトリエ棟として、明確にその場を分離した。
生活棟では、客間よりも茶の間,台所,風呂,厠に工夫を凝らし、人に見せる事より自分達の暮らし、その安らぎを大事にした。
茶の間には掘り炬燵、釣り戸棚、二段押し入れ、収納式神棚、多数の小引き出し等、暮らしやすさと一家団欒がよく考えられている。
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芙美子は料理好きでよく台所に立ったらしい。
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アトリエ棟には、自分の書斎、書庫、夫である画家 手塚緑敏(まさはる)の画室、そして寝室等がある。
寝室は元々芙美子の書斎として造られたのだが、明るすぎるとして、早々に隣の納戸に書斎を移した。元々納戸であるから狭いが、衣服や物入れが造りつけされていて使いやすい。また、庇が深く、障子の下半分を上げ下げできるので明るさの調節ができ、仕事中に庭を見て息抜きもできる。
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緑敏のためのアトリエは北の屋根から光が入る。現在この部屋は芙美子関連資料の展示室となっている。
庭には多くの木々、花々を植え、現在もそれらは訪れた人を愉しませている。長方形の池には金魚が泳ぐ。
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冒頭のチラシに印刷された「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき」は彼女が好んで色紙等に書いた一節だが、元々は友人で『赤毛のアン』の翻訳でも知られる村岡花子への手紙にその詩の全文がある。

「風も吹くなり
 雲も光るなり
 生きてゐる幸福(しあはせ)は
 波間の鴎のごとく
 縹渺(ひょうびょう)とただよい

 生きてゐる幸福(こうふく)は
 あなたも知ってゐる
 私もよく知ってゐる
 花のいのちはみじかくて
 苦しきことのみ多かれど
 風も吹くなり
 雲も光るなり」

彼女はあの時代の女の生き方に決して絶望しているのではない、人生をひとつの旅として謳歌しているのである。


(続く)
 
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