mixiユーザー(id:3341406)

2023年12月03日11:00

135 view

例会2日目�� 佐伯祐三アトリエ記念館〜中村彝アトリエ記念館

(続き)

林芙美子記念館から、佐伯祐三アトリエ記念館、中村彝アトリエ記念館へは、ひたすら歩く。
漱石山房記念館を含め、4館共現在は新宿区立の施設となっている。

佐伯の記念館に行く前に、「ペイザン」というカウンターしかない小さな洋食屋で昼食。食通であるKMのお奨め。
   フォト
立派な体格のマスターに訊くと、「ペイザン(paysan)」とはフランス語の形容詞で「田舎風の」とか「粗野な」という意味だとの事。名詞では「農民」「田舎者」等。
どんなものか分からぬまま、メニューの一番上に書かれていた「ペイザン」を注文したところ、出てきたのがこれ。
   フォト
分厚いハンバーグ、クリームコロッケ、チキンソテーは2枚、ボウルいっぱいのサラダ。
ご飯は少量にしてもらった。
量の多さに驚いたとマスターに言うと、この体格の私が作っているんでどうしてもこうなっちゃう、と笑う。
これで1,100円也。諸物価高の昨今、この値段でやっていくのは大変だろう。


中落合の佐伯祐三アトリエ記念館迄は徒歩20分。
佐伯祐三(1898-1928)は第1回目と第2回目のパリ留学の間の、このアトリエ兼住居の暮らしで、坂と電信柱の多い落合の景色を繰り返し描いた。
この日も、聖母坂通りを歩きながら、佐伯がここらでスケッチをしたのだろうと周囲を見回したが、時代の変化のせいで見当をつける事はできなかった。

細い小路に入ると、行き止まりの右手に白い洋館風の建物があった。
   フォト
佐伯は、1920(大正9)年、東京美術学校在学中に象牙美術商の娘 池田米子と結婚。翌年、二人の実家の資金援助により、この地にアトリエ付き住宅を建てた。
1922年、長女彌智子(やちこ)誕生。
1923年、東京美術学校卒業。同年、パリに向け神戸港より出立。
1924〜26年、パリで学ぶ。自作をフォービスムのブラマンクに批判され、ショックを受ける。

佐伯の、死の影が次々訪れる短い生涯については、2014年4月、静岡県立美術館での展覧会後、詳しくレポートしている。もう一度書くのは辛いので以下を参照頂けたらありがたい。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1925233019&owner_id=3341406

1926年、体調を心配した兄に連れられて帰国し、このアトリエに戻った佐伯。彼の30点程ある落合風景は、殆どが1926年頃にこの地で描かれている。
作例は、2023年2月、東京ステーションギャラリーでの佐伯展レポートを参照。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1984468514&owner_id=3341406

佐伯は無理を押し、1927年、再び家族とパリに渡る。前回と違い、シベリヤ経由の鉄道の旅だった。そして、2度と日本の地を踏む事なく、1928年8/16、30歳で没する。
結核の悪化、自殺未遂、精神病院入院と、不幸な最期だった。
加えて、同8/30には一人娘の彌智子も同じ病で死ぬ。
米子夫人は、2人遺骨を抱いて帰国した。
彼女は女流画家として75歳迄画業を続け、1972年にここで亡くなった。

こちらはデスマスクに非ず、1921(大正10)年23歳頃に画家仲間と作ったライフマスクである。
   フォト
佐伯はどんな気持ちでこれを作ったのだろうか。


佐伯の記念館から目白通りに出て東方向へ歩き、右折して静かな住宅街の中に入ると、中村彝(つね)アトリエ記念館があった。約15分。
   フォト
佐伯と中村の記念館は入場無料。念のため書いておくが、両館に展示している作品は全てレプリカで、本物は置いていない。

中村彝(1887-1924)は佐伯より5年前の1916(大正5)年、29歳から下落合のアトリエ兼住宅に住んだ。
彼の最も有名な作品というと、何と言っても盲目のロシア詩人をモデルにした《エロシェンコ氏の像》(1920)だろう。それもこのアトリエで描かれた。
国指定重要文化財の扱いになり、東京国立近代美術館所蔵。
フォト

友人の画家鶴田吾郎が同じモデルをこのアトリエで同時に描いている事は殆ど知られていない。タイトルは《盲目のエロシェンコ》

彝の作品では、新宿中村屋の主人相馬愛蔵・黒光夫婦の長女俊子を描いた《少女》(1914)もよく知られている。
フォト

中村は17歳にして肺結核と診断され、軍人の道を断念、画家を志す事となった。
文展で賞を獲得、新進画家として認められ、1911(大正2)年、相馬夫妻の厚意で中村屋の裏のアトリエに住む事となった。
彝は11歳年下の相馬家の長女俊子と知り合い、彼女をモデルとして制作するうちに恋愛関係となるが、相馬夫妻に反対され、1915(大正4)年中村屋を出る。
そして翌年、下落合のこのアトリエ兼住宅に移り住む事となったのである。

アトリエ内部。北側からの穏やかな光が射し込む。
   フォト
イーゼルに乗せられた鶴田吾郎のエロシェンコ像(レプリカ)が並べて置かれている。

彝はこのアトリエを愛し、肺結核と闘いながら《エロシェンコ氏の像》《頭蓋骨を持てる自画像》(未完)《老母の像》等、制作を続けたが、1924(大正13)年、喀血による窒息のため37歳の短い生涯を閉じた。

こちらは、紛れもないデスマスク。友人の彫刻家保田龍門等によって石膏で作られた。
   フォト

さて、これで予定していた行くべきところには全て行き、見るべきものは全て見た。

15:30過ぎ、中村彝アトリエ記念館を出ると、陽が陰って風が冷たくなってきていた。
目白通りを右折し、山手線の目白駅に向かい東へ歩いた。
10分程で駅着。
KMとは、また来年も元気で会おうねと約束し、ホームで別れた。
 
電車の中で、行った先々をあれこれ思い起こした。
今回も昨年同様に充実した例会となった。KMに感謝。


長く拙い旅行記に最後迄お付き合い頂きまして、ありがとうございました。
 

(お終い)
 
2 4

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2023年12月>
日 月 火 水 木 金 土
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31