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2025年01月12日23:03

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賀茂真淵記念館講座「男爵 赤松則良と西周、そして森鴎外〜いわゆる『舞姫』事件の顛末について」第2回

1/11(土)、賀茂真淵記念館講座「男爵 赤松則良と西周、そして森鴎外〜いわゆる『舞姫』事件の顛末について」(全3回)の第2回を聴いた。

 講師 木村弘之

第1回(12/14)については以下、12/15のレポート参。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1988997957&owner_id=3341406

森鴎外の小説『舞姫』には、彼のドイツ留学中の出来事と恋愛体験が色濃く反映され、創作と事実とが織り交ぜられている。
主人公太田豊太郎は森鴎外(林太郎)、ヒロインのエリス・ワイゲルトはエリーゼ・ヴィーゲルトという実在人物がモデルとされている。後者については諸説あったが、六草いちか(1962- )の論文(『それからのエリス いま明らかになる鴎外「舞姫」の面影』(2013),『すべてのナゾが解けた!!鴎外「舞姫」徹底研究』(2022))以降、これが定説として固まった。

森林太郎は4年間の留学を終え、1888(明治21)年9/8横浜港に帰ってきた。
その4日後(9/12)にドイツ人女性エリーゼ・ヴィーゲルト(当時21歳)が来日、10/17迄日本に滞在し、ドイツに帰国した。
若く貧しい女性が2ヶ月かけて単独で来日するのはまず無理な事であって、おそらく林太郎がドイツを離れる時にその資金を工面したに違いない。

慌てた森家(事に母親ミネ)は、林太郎の妹 喜美子の夫で解剖学者・人類学者 小金井良精(よしきよ)を使ってエリーゼを説得し、築地精養軒ホテルの宿泊代・帰りの船賃を与えてドイツへ帰した。
森家再興のためには林太郎を身許も分からぬドイツ女から引き離し、由緒ある女性と結婚させ、心身を落ち着かせる事が何よりも大事だとミネは考えたのである。
一方、林太郎はヨーロッパで近代人の自我を学び、日本の伝統的なしきたり、母ミネの思いとの間で、苦悩した。

この時の林太郎の心中は、身重のエリスをドイツに置いて帰国してきた豊太郎のそれと殆どイコールだと言っていいであろう。
小説の中で、豊太郎は日本へ向かう船中において、乱れた心を鎮めるようとして一連の経緯を手記につづり、それが『舞姫』という形になったとされているが、実際、林太郎も心の整理をつけるべく、ある場所で『舞姫』を書いたのである。
それは、いつ何処でか?

1888(明治21)年10/17にエリーゼが帰国するのを待って、母ミネは20日、西周邸へ行き、赤松則良の長女 登志子と林太郎の結婚を受諾すると返事する。
この縁談は、林太郎が帰国してすぐ、西周から森家に申し入れられたものだと推測される。それ以前に、赤松則良が、適齢(16〜17歳)になった自分の長女 登志子の結婚相手について、西周に相談を持ちかけていた。
こののち結婚をまとめるため、森家、西周家、林洞海及び研海家、赤松則良家、及び媒酌人候補だった林太郎の陸軍医上司である石黒忠悳(ただのり)家の間を行ったり来たり(*1)する。
当時、結婚とは、個人間の恋愛の帰着でも自由な選択でもなく、家と家の間で取り決めるべき重要な案件であった。

言ったり来たりの詳細は一旦措くとして、ともかく、林太郎と登志子は翌1889(明治22)年2/24(*2)結婚式を挙げ、赤松則良の持ち家だった上野池之端花園町の邸(*3)に住い、1890(明治23)年9/13には長男 於菟誕生、そして同年11月に林太郎と登志子は離婚する事になる。
この間の1889年10〜11月に、林太郎は赤松の持ち家に、愛情を感ずる事のできない登志子と同居しつつ、エリーゼを追憶し、精神的な苦悩を負いながら『舞姫』を構想・執筆し、「国民の友」1890年1月号に発表する事となるのである。
この作品はスキャンダルとなり、林太郎は世間の非難を浴びる。軍部からは小説を禁止され、やむなく翻訳活動をする事となる。
この一連を「舞姫事件」と呼んでいる。

何故林太郎は登志子と結婚する事になったか、そしてたちまち離婚する事になったか、その後の林太郎と登志子は? これらは、心中の事で難しい側面があり、諸説主張される事となるが、ともかく、森家、赤松家、西家の関係などから、細かな事実を積み上げていく必要がある。

本講座の第1回目からトライしようとしているのは、この流れである。

(*1)
1888(明治21)年10/17、エリーゼ帰国
10/20、森ミネ、林太郎の弟篤次郎を連れて西周邸へ行き、赤松登志子との結婚を受諾する旨返答。
この時西周は「舞姫事件」の事を全く知らない。
10/21、西周夫人升子、林邸に行き、研海の父洞海に本縁組を報告。
洞海は、林家、赤松家、西家一族の長という立場だった。
10/23、林洞海、森林太郎の上司石黒忠悳邸を訪れ、本縁組について相談。
10/23、洞海、当時佐世保軍港建設指揮のため佐世保に在住していた赤松則良に、本件について手紙。
11/7、赤松則良より、本件を進めて欲しい旨返信。
当時、東京と佐世保間の郵便物の往復には、これくらいの日数がかかった。
11/7、林洞海、西周に赤松から返信があった旨告げる。
11/7、西周、升子夫人と森邸を訪ね、静男ミネ夫妻に赤松の返信を告げる。
11/7、森篤次郎、石黒邸に行き、忠悳に報告。
11/8、森ミネ、西邸に行き、周に媒酌人を依頼。
周これを断る、本役は林洞海が担うべきだとして。
11/9、西升子、林邸へ。洞海、これを断る、西周が担うべきだと。
11/9、西周、石黒忠悳邸を訪れ媒酌人を依頼。
忠悳、「茲に秘事あり」と断る。
「秘事」とは「舞姫事件」の事。忠悳は事件については自身の胸の内に抑え、軍医本部長の橋本綱常に口出しさせないようにしていた。立場上、媒酌人役を受ける事はできない、と。
西周は「舞姫事件」をここで知った。
周は、林洞海の五男の養父 宮内広に媒酌を頼みこんだ。

…『西周日記』『石黒日記』による。

(*2)
林太郎の妹 小金井喜美子や篤次郎の記録など、森家側資料から1889(明治22)年3/9結婚説があったが、『西周日記』『赤松家資料』、鴎外の『自紀材料』で2/29と特定された。

(*3)
上野池之端の水月ホテルにある鴎外旧居がそれ。
水月ホテルは閉館する事となったため、鴎外旧居の移築が検討されてきたが、この度、根津神社境内に移される事が決まり、工事を進めながら、クラウドファンディングでその資金を募っている。
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講座第3回は2/8の予定。
 
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