ハウス・オブ・グッチ おもしろかった。
ガガとドライバー、パチーノばかりが賞賛されているふしがあるが、アイアンズのヴィスコンティの登場人物ばりの過去の想いにしがみつきと儚さもレトの場違いぶり観もよい。テンポもだらだらではなく飽きさせずにオーディエンスを映画時間旅行に連れていく。
土が舞うのはイタリア映画に相応しい。スパゲッティウェスタンだけではなく、50〜70年代のイタリア映画の都会には土が舞う。時代を表している。
伊太利は欧羅巴の文化のセンター、そう、センターである。Perfumeで言えばあーちゃんであり、乃木坂でいえば齋藤飛鳥か遠藤さくら、大リーグでいえば大谷SHOWTIME、すき家でいえばとろ〜り3種のチーズ牛丼、文化の中心だ。ルネサンス以来、フランスもゲルマンもハプスブルクもこぞって真似してスタイルとファッションを取り入れる。神ではない人間による人間のための人間のルネサンス、よって、綻びも生まれる。不完全なる人間が生み出すもの。
ガガの冒頭部における彼女の父親とのやり取り、そこにお金に対するやりくりと節度、執着、そして筆跡真似により犯罪のにおいをかすかに垣間見せる。不完全なる存在である人間の実存、グリードを持ち合わせる。欲望を充たすための原罪はいつもそばにある。
パーリーで出会うグッチとガガ。彼女の眼に映るのは金の成る木、というよりは、目に映る”グッチ”というなにか神聖なる響きなのであろう。彼女はそれを欲する、というよりは、自身と重ね合わせるのだろう。そしてやがて、齟齬が生まれてくるであろう。我々は名家と家長は論じるも、グッチは嘘で固められている。嘘を批判するドライバーもやがて豪勢と虚勢を張り巡らせる。
コッポラはスコットにはなれないだろう(彼が目指すはラングだろうし)、しかしながらスコットは彼が描く人間関係性、ギャングもののみならずグラディエーターなどからも察してもコッポラになりたい観が満ち溢れているように感じられる(彼は決してキューブリックを目指していないだろう)。パチーノにはコルレオーネ家の残滓がある。というか、パートIIIの主人公の成れの果て、人間の皮をかぶっているだけのグリードまみれの餓鬼に遂にはなり果てた感覚。ある意味、痩せてはいないけれどロード・オブ・ザ・リングのゴラムにも見えてくる。このグリードの物語の大黒柱に相応しい。
なぜ殺人するのか、と追っていくと霊媒師の姿が。なるほど、こちらジャポンでもオセロの中島知子から藤島部屋の貴乃花まで数多くのスピリチュアルに信奉しすぎでワイドショー、世間をお騒がせした方々がいるけれど、この主人公もそこに寄りかかりエスカレートしたのか、怖ろしいでござるな、となる。そのスピリチュアルはオカルトな呪いでもあるが、不思議なものばかりではない。人間の生霊が為すものでもあるのだ。ガガ自身が神聖なる響きをドロドロと生成させ原罪の感情に吞み込まれる。人間であることの仕方なさ。
されど彼女は最後の最後までプライドを手放すことはない。
男がヘタレばかりだからか、或いは、生まれ変わったら男になりたい感が無意識にも(或いは意識的に)あるからか、ガガのブルドーザーのような躍進ぶりにはそれが反映されるかのように表される。そしてそれは、ミセス・グッチを体現化するガガ自身にも反映されているかのようなノーミスキャストなのである。力強いオンナ、というだけではなく謎そのものもそこにはある。
意固地と嫉妬、階層の違い観を表しながらミセス・グッチのアンコントロールやミスリードぶりが徐々にあからさまになる。クリシェな転落物語の始まりのようでありながらも、日本と同様にイタリア、家に固執する伝統があり、そういった古いものを打破する主人公のインディペンデンスがここには表されるのか。ガガというバイタリティが新しい時代に向かうという意味で、古い体質のブルジョワジーを壊すということ、大衆のリプレゼーションということそれすなわちグリードなり、を良くも悪くも上手く表しているのではないか。と思ったものも、彼女もまた人間、そのこと即ちグリード現すものとなる。
彼女は最後までミセス”グッチ”で在り続ける。
タランティーノとデイヴィッドリンチ、すなわちLAに感心をよせるとき、”イメージ”とはなにか、とともに、”グリード”とはも考えたはじめ、タランティーノ、デイヴィッドリンチ、イーストウッド、フィンチャーに続き、80歳を超えながら旺盛に作品作りを続けるスコットにも関心を向ける。イングランドから見るニューイングランドとは何かを考えながら、欧羅巴を舞台にしながらもここには亜米利加もあり、と同時に、人間の本質もある。インパクトはないが本作、おもしろさは在る。
Ps
原罪はコリンノエカラックスから思い始めるところのものである。スコセッシが表す贖罪は抱え持つことによる苦しみが表されるが、原罪は開き直っている、というか原罪そのものに気づいてもいない。それはヒトの持つ実存であり、それそのものがヒトであるかのように受け入れている。
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