パニック・ルームおもしろかった。タランティーノとデヴィッドリンチにハマってるからか、フィンチャーも観たくなる。購入したものではないけど、レンタルで観る。フィンチャーいつものように、この社会の誰しもが実は社会に適合しない反社会人であるといった人々が出てきて、内には不純なものが潜み、それは怒りであったりの感情、主人公はその不純なものを無意識に嫌悪し、(対象物にフェチるというではなく)フェチする習性が天性の主人公が執着心/オブセッションを無自覚に持っており起こった出来事を探究する(本作においては探究せざるえなくなるから探究する)。導かれ、主人公は死と接する体験をし、悦楽し感情を得る。プロセスにおいて、オブセッションが表される。オブセッションは無自覚な行動に表される。主人公は死と接する体験のなか、冷静な判断で対処し、無意識ながら自己を曝け出させる。マッチョとヘナチョコのコンビを通して表される。メインの主人公は相方である対の存在に反応する形で、オブセッションを拡張させる。本作においてオブセッションは親子愛であり慈愛である。オブセッションがグニョグニョグニョーンと増殖するとき、都市社会の混乱するコミュニケーションの整合がトライされる。そこで、ヒトの歴史に潜む不純なものが炙り出され、主人公はそうした状況で社会に向ける慈愛を自覚する。慈愛を自覚できるとき、主人公(或いは、登場人物)は他者とコミュニケーションを取ろうとする。恐怖の克服、そして主人公が向き合える彼/彼女自身がそこに表される。と、私的には、フィンチャーのプロット進行を捉えている。も、観ているときはFUNで観ていて、後で私的に書いたものを見て挙げているけれど、本作もこれは当てはまるのではないかな、と自画自賛をアホまるだしにしているわけだけれど、FUNで観てるときに思ったのは、社会的に虐げられている女性のマッチョ世界を形成するオトコに対する怒りなのかな、それは不純なものとして有るわけだけれど、そしてそれはやがて慈愛の開花に転回されるわけだけれど、そんな怒りを、フェミニズム的なそれとまで露骨ではないけれど、感じる、となる。それなのなら、ジョディフォスターのキャストは理解できる。空威張りする無能な男子、残忍なサイコパス男性(あとで調べると、グラミー賞を2度も受賞しているカントリーシンガーらしく、しばらくはマスクをかぶっていて正体を見せない。イーストウッドのクライマッチョにはイーストウッドの雇い主を演じているらしいけど、今は顔が思い出せない)、おまけに踏んだり蹴ったりされるジョディの不倫して離婚となり彼女に精神的障害を与える元ダンナらは皆、女性からしたら胸がスッとされるぐらいにケチョンケチョンにされる(ハリウッド映画の定石通りに、ルールにのっとたケチョンケチョンにされる男性像でもあるが)。本作は、ある意味、ホームドラマの形をとっているのかもしれないな。家のなかで展開されるし。男性たちのなかでも善い男性であるフォレストウィテカーがいる。彼も撃たなければいいのに、と後で思ってしまう。罪が生まれるし。でも、アメリカン・オーディエンス及びハリウッドによって総ハクチ化された世界中のオーディエンスはあそこで血が流れなければスカっとしないのであろう。そんなウィテカーであるが、彼をキャストしたのは当然とばかりにゾラあるいはノリス的なドラマが展開される。群像残忍ホームドラマだな、本作。
タランティーノとデヴィッドリンチの絵空事(註1)と違って、フィンチャーの描くものはありえそうなものであるから(だから史実的なものも彼は興味があるのだろうか)恐怖は身近なものとして感じられてくる。ただし、人物やあらすじはハリウッドのルールに準じている。けど、手に汗にぎる意外な展開はあるある。分かっちゃいるけ℃やめられないハリウッド映画、なのであろう。
註1 タランティーノはこれは映画だから、と、それを認めるだろうけれど、リンチは、これは僕の眼のまえで起きる真実であると言って、そのこと否定をするであろう。
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