セーラー服 百合族おもしろかった。購入したので観る。女性同士の計り知れない終わることなきセクシャルな性(さが)がエスタブリッシュされるプールでの遊戯、さすが、後にビーバップするアクションの原型か、那須博之は動きを掬い取るのが上手いな、となる。作品の雰囲気はエイティーズ、竹の子族が踊っていそうな東京が表されたり、山本奈津子の聖子ちゃんカットかファーラーフォーセットカットかのようなヘアスタ、コケティッシュなファッション、流れるCCBのようなテクノロックに、田舎ヤンキーが聴くような、或いは昔懐かしドライヴイン食堂で流れるような永ちゃん風サウンド、平山みきがメインヴォーカルをとっているようなジューシーフルーツ・サウンド、サザンが流れるようなような湘南(あそこ、そうなんか?でも江ノ電みたいなのが走っているのが何度も表されるから湘南なんだろう、そうなんか)が表される。素敵な青春映画である。計り知れない終わることないセクシャルな関係性もあるが、そうした身体性としての性(さが)もまた表される。その男性からみる不思議性はたぶん、3作目が終わるまで持続されるのだろうな。性器、というより、前張りが映るのを隠すためのジャンプカット、なんとなくゴダール、斬新的にも見える(も、たしか日本のポルノではそうしたカットはよくあるとなにかで読んだことがある)ショットかと思っていると、ラストタンゴ・インマエバリ、、失礼しました、ラストタンゴ・イン・パリかのようなア●ルセッ●ス、ヌーヴェルヴァーグをたしかに継承する。男性のひとりよがりの性がふたりの男性学友に表され、それとコントラストされるかのような求め合う永遠性、そこには優しさと嫉妬、哀しみや喜び、そうしたエモーションが身体として表される。そうした性(さが)が百合にはある。男性たちの暴力的なひとりよがり、やはり女性は消費物としてだけ表されるのかと思った矢先のその最終盤である。思えば、山本奈津子と小田かおるの関係性には終始、そうした性(さが)が表されていたのだ、となる。永遠(とわ)なる持続性。
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