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2024年09月23日12:00

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隅田川周辺を歩く〜東京都慰霊堂、復興記念館 他

9/14(土)15(日)1泊の上京で2つの美術館を訪れた事は先にレポートした。
宿泊したのは蔵前のTホテル。
蔵前というと相撲、そして古い町並みを頭に浮かべていたが、最近の蔵前は、お洒落な店も多く、若者がたくさん集まる街に変貌していた。
14日の夜と15日の午前は、ホテル周辺を散策した。

隅田川の堤防に上がって北方向を見ると、厩橋の向うにスカイツリー。
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川面を渡る風が心地好い。
南に目を移すと、照明の美しい蔵前橋の上に月がかかっていた。
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翌朝はその蔵前橋を渡り、横網町公園へ。
2016年、両国に泊まった時もここへ来たのだった。
〈参〉「馬鑑〜山口晃展/馬の博物館」(2016.5.24記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1952932387&owner_id=3341406


101年前、1923(大正12)年9/1、正午直前に関東大震災が起こった。
次第に火事が広がり、人々は、陸軍被服厰跡で広く空き地となっていたこの辺りに避難してきたが、火は旋風を引き起こす程激化し、膨大な数の犠牲者を生んだ。被服厰跡への避難者は40,000人、内38,000人が死んだとの調査データがある。
日を追って、朝鮮人が放火した、暴動を起こした、井戸に毒を投げ入れた等々のデマが飛び交い、自警団等が朝鮮人を虐殺する事件が各地で発生、死傷者行方不明者は増大した。これら混乱に乗じ、9/16には軍や憲兵が大杉栄等社会主義者らを殺害するという事件迄起きた。

東京都は、震災7年後1930(昭和5)年に、被服厰跡地に「震災記念堂」を建てた。設計に当たったのは、築地本願寺等日本の伝統と西洋建築をミックスした建造物を多く手がけた伊東忠太(1867-1954)。
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関東大震災の犠牲者は現在約105,000人とされているが、この堂には58,000の身元不明者の遺骨を納めたと言われている。
その後、太平洋戦争の東京大空襲で亡くなった人々の遺骨163,000もここに納められ、名称は「東京都慰霊堂」と改められた。
堂内には、震災の惨状を描いた徳永柳洲(りゅうしゅう/1871-1936)の25枚連作のうち8枚が展示されている。
柳洲52歳、自身、四谷のアパートが全焼、翌日から各地をスケッチして回った。1ヶ月後より2m四方の油画を手掛け、「移動震災実況油絵展覧会」を有志画家らと伴に日本各地に巡回、義援金を募った。
《第一震 十二階の崩壊》
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《当夜の永代橋》
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《旋風》
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巨大な慰霊堂の傍らには、虐殺された朝鮮人達の小さな追悼碑がある。
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この時殺された朝鮮人は全国で数千人とも言われている。的確な捜査や調査が充分には行われず、確実な数は分かっていない。
石碑はあまりに小さく、植栽の陰にあるため、多くの人は見落としてしまいそうだ。

主碑の文面
「追悼 関東大震災朝鮮人犠牲者」

中央下の副碑文面
「この歴史 永遠に忘れず
 在日朝鮮人と固く 手を握り
 日朝親善 アジア平和を 打ちたてん」

左側の副碑文面
「一九二三年九月発生した関東大震災の混乱のなかで、あやまった策動と流言蜚語のため六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われました。
私たちは、震災五十周年をむかえ、朝鮮人犠牲者を心から追悼します。
この事件の真実を識ることは不幸な歴史をくりかえさず、民族差別を無くし、人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎となると信じます。
思想、信条の相違を越えて、この碑の建設に寄せられた日本人の誠意と献身が、日本と朝鮮両民族の永遠の親善の力となることを期待します。
 一九七三年九月
  関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会」

毎年9/1にはこの横網町公園で朝鮮人犠牲者の追悼の会が行われてきたが、小池百合子都知事は、それ以前の知事の倣いをとりやめ、2017年以降8年連続で追悼文を送付していない。日朝協会他様々な市民団体・教職員団体が知事に要請を行っているが、曖昧な回答でそれらを無視し続けている。同様の事件が起きた埼玉県,千葉県の知事は今年追悼文を送った。

碑前で手を合わせたあと、公園の北の一角にある東京都復興記念館を訪れる。こちらも設計は伊東忠太。震災記念堂の翌1931(昭和6)年開館。
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屋外には太平洋戦争災害遺物の展示。
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徳永柳洲の震災図の残り16点はこちらに展示されている。1枚行方不明。

本館2階では、有島生馬(1882-1974)が震災から8年後に描いた大作《大震記念》(1931)を展示中だ。
・秋季特別展「絵画『大震記念』〜有島生馬の描いた関東大震災」
 会期 8/27〜12/22

生馬は、兄 有島武郎(1878-1923)、弟 里見��(1888-1983)と伴に「白樺」に参加して活動。セザンヌをいち早く日本に紹介した。
絵画は藤島武二(1867-1943)に師事。最も有名な作品は《鬼》(1914/東京都現代美術館所蔵)。

生馬は41歳の時、上野(*)で関東大震災に遭遇。竹久夢二(1884-1934)と一緒に瓦礫の山と化した東京を歩き回った。
 (*)上野公園内の竹の台陳列館で第10回二科会展の準備をしていた。

《大震記念》は198×352cmの大型油画で、彼の記憶と当時撮影された報道写真等を基に描かれた、一種の幻想画と言ってだろう。時間と空間が渾然一体となっている。本人により「大震災の印象を部分的に描写せるものなり」との添え書きがある。
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絵には著名人が多数描き込まれている。
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ナンバー順に、それぞれ誰なのか、下に列記しておく。
�〔�原白蓮(1885-1967) 歌人。大正天皇の姪。
大震災前の1921年10/22の大阪朝日新聞に「私は金力を以て女性の人格的尊厳を無視する貴方(*)に永久の訣別を告げます」と絶縁状を書き、夫の下より出奔。
 (*)「九州炭坑王」と呼ばれた伊藤伝右衛門。
7歳年下の社会活動家 宮崎龍介へ奔ろうとするが、姦通罪のあった時代、所謂「白蓮事件」としてスキャンダルとなり、実家に監禁され、その間に宮崎の子を出産。
親子3人が再開できたのは2年後、震災の混乱の中、正式に結婚。宮内省より華族除籍。
龍介が結核で寝込むと、白蓮は執筆活動で家族を支える。
隆介快復後は、弁護士となった夫と伴に、弱者救済に励んだ。
太平洋戦争では、終戦4日前、学徒出陣した長男が戦死。戦後は、戦争をなくそうと「悲母の会」を結成し、平和運動に尽力した。

��島崎藤村(1872-1943) 詩人・小説家。生馬の友人。『千曲川のスケッチ』(1912)は生馬が装丁。
�M�島生馬 本人。
�っ鬱很監� 画家・詩人。生馬の友人。都新聞に「東京災難画信」(文・絵)を連載。
〈参〉「竹久夢二の関東大震災」(2023.9.16記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985930665&owner_id=3341406

�テE臧霪� 洋画家。生馬の師。《大震災後の東京の一部》(1923)制作。
�Ε▲襯戞璽�・ド・バッソンピエール(1873-1956) ベルギーの駐日大使。親日家で、ベルギーからの救援活動に尽力。
�Щ核楔∧識�(1852-1933) 内閣総理大臣(当時)。
�┗陛捗┝]�(1876-1943) 東京市市長(当時)。震災からの復興に尽力。
��後藤新平(1857-1929) 内務大臣(当時)。帝都復興院総裁を兼務し、復興計画を立てた。

��大杉栄(1885-1923) 思想家・社会運動家。憲兵隊甘粕大尉によって、内縁の妻 伊藤野枝(28歳)、甥 橘宗一(6歳)伴に惨殺された。
��佐藤隆三(1885-1961) 文筆家。生馬の弟(三男)。
��有島信子(1889-1978) 生馬の妻。画家 原田直次郎の姪。
��里見�� 生馬の弟(四男)。

車のナンバーは大震災の「1923」にしてある。


9/15は牛嶋神社の祭りで、神輿を担いだ人達が横網町公園にやってきた。
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法被を着た人に訊くと、この日は東京都で一番祭の多い日だそうだ。
 

〈参考資料〉
『令和6年 秋季特別展
 絵画「大震記念」〜有島生馬の描いた関東大震災』
 執筆 上杉俊和
 発行 2024年8/27、東京都慰霊協会
 
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