スローなブギにしてくれ、おもしろかった。南佳孝のあの歌をバックに都市高速と都会のビルディング群がクルマ目線で流れ映る。1981年の風景には、バージンブルースやもっとしなやかに もっとしたたかににはあった昭和の風景が見えなくなっている。されど、そこにある風景が無機質な冷たさをみせるというわけではなく、陽の光のなか、乾いた温もりを表している。主人公の放浪する少女はW浅野とデンジャラス・コップより前の浅野アッツアツ温子。情熱的な顔だけれど初々しさが素敵に光る。野良猫に掛け合わされる主人公の彼女、エイティーズに入ったばかりの頃の本作品ゆえなるゆえか、スキゾ界隈の住人をリプレゼントする。ノエマっちゃっているのは彼女だけではなく、山崎努によって体現化される中年男性や浅野の恋人男性古尾谷もである。彼らは住んでいる場所に堪えられなくなって外に出る、というよりかは、猫のように目を大きく開き輝かせ、関心のノエマへと向かっている。されどその対象はいまだ目標がないままにあり、それゆえ、漂う感覚を表わす。そうしたモメントに表されるのが刹那であり、それがバージンブルースしかりもっとしなやかに もっとしたたかにしかり藤田敏八の魅力なのかな。漂う感覚は72年の山荘事件以降のもはや正義が何か木っ端みじんに分からなくなったことから生まれたものにも、或いはイージーライダー以降のアメリカンなセンスにあるものにも感じられる(もちろん、迷いながらの浮遊感を表す作品は60年代以前からもあるものであるが)。山崎も古尾谷も新人類というよりかは、女性にどなるような言葉を出したりやおかまを気持ち悪がったりと、武士かのような振る舞いと発話、新しい時代に取り残されているかのように存在する。クビになり意固地に走り続け自死する原田もそうである。それでも、関心を求め外に出る。それは無目的に、ではある。それに比して、同じく外に出る浅野は、情熱と初々しさで新しい存在としてそこに在る。新人類か。温子は自分勝手なままの自分のことしか考えていない男たちを見る。やがて男ふたりの彷徨の先も見えてくる。山崎くんちのツトムくんは誰かと死にたがっている。心中という感覚がもうムカシ的である。彼は娘と離れてやり切れなさ表し未練も何もないなぞ一切ない。昔の映像を映写機で映して、彼は失われゆく共同体家族と失った原田を見る。過去とさよならできないでいる。されど死に際も決めれないでいる。若人は過去も未来もなく現在だけを生きる。無目的にバイクで走る。やがてパチンコ屋での常套口上をあげ、平凡な日常へと生きている。ひとりの男の元へ向かう温子であるが、まだこの時代、そうしたことでしか女性は生きていけなかったのかもしれない。藤田敏八の次作のダイヤモンドは傷つかないでは、女性の自律に一歩踏み込んでいる。
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