言葉を再配分すること、テクストを綴ること、とバルトは説き、デリダはテクストを文化の内部で記述されているものと説き、一方、フーコーは知と権力は分離するのは不可能で、分かちがたい力と知の結び目が構成されているとする、とエイティーズに紹介される。非・知とテクストは結びつかれる。→ スキゾ・キッズの冒険: シラケとアソビの世代。ヲタクの発芽である。電気グルーヴはテクストを体現し時代を反省する。フリッパーズ・ギターは読みを実践する。大林宜彦のジュブナイルとはまた別の場所で、相米慎二と森田芳光の少年少女は冒険を繰り広げる。たぶん岩井俊二と園子温の少年少女たちもミレニアムに冒険を続けセカイ系に目がくらむ。も、逃走キッズからトー横キッズへと至る長い道のりのゴールライン、岩井と園は袂を分かつかのように時代はエイティーズからエスディージーザス、SEKAI NO OWARIは「世界」の終わりを宣言し、グレタはコンプライアンス世代をけん引し、YOASOBIはアソビを反語化し、緑黄色社会は社会の栄養バランスを改善トライ、米津玄師は今日も歌っている、さよーならまたいつか!、と。キートン山田と木村匡也「本当か?まる子」
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