が気になりネットから抜粋。自分が気になったところだけ。
東宝はこれまであまり気になる存在ではなかったけれど、恋する女たちも彼のオートバイ彼女の島もそろばんずくも雪の断章も東宝か、と気になる。松竹もウィキで調べたが、たぶん松竹の社員が書いたものなのだろう、うちは映画だけではありません、歌舞伎もあります、寅さんが終了してもぜんぜん凹んでいません、とばかりの強気が見え、斜陽化のときの政策があまり見えないのでよく分からず。
アイドル映画もあまり関心がなかったけれど(大林ワールドは好きだったけれど)、大林相米森田関係で観ていってるので、こちらも関心がむく。
◎日活ロマンポルノ
団地妻 昼下りの情事(1971年11月20日 監督:西村昭五郎、主演:白川和子) 白い指の戯れ(1972年6月7日 監督:村川透、主演:伊佐山ひろ子) 八月はエロスの匂い(1972年8月16日 監督:藤田敏八、主演:川村真樹) 一条さゆり 濡れた欲情(1972年10月7日 監督:神代辰巳、主演:一条さゆり) 花と蛇(1974年6月22日 監督:小沼勝、主演:谷ナオミ)

色情めす市場 (1974年9月11日 監督:田中登、主演:芹明香) 桃尻娘 ピンク・ヒップ・ガール(1978年4月29日 監督:小原宏裕、主演:竹田かほり) 天使のはらわた 赤い教室(1979年1月6日 監督:曾根中生、主演:水原ゆう紀) 赫い髪の女(1979年2月17日 監督:神代辰巳、主演:宮下順子) 桃尻娘 ラブアタック(1979年4月28日 監督:小原宏裕、主演:竹田かほり) もっとしなやかに もっとしたたかに(1979年4月28日 監督:藤田敏八、主演:高沢順子、森下愛子) 桃尻娘 プロポーズ大作戦(1980年4月26日 監督:小原宏裕、主演:竹田かほり) ラブレター(1981年8月7日 監督:東陽一、主演:関根恵子) 団鬼六 女教師縄地獄(1981年8月27日 監督:西村昭五郎、主演:麻吹淳子) 団鬼六 女美容師縄飼育(1981年11月27日 監督:伊藤秀裕、主演:麻吹淳子) 天使のはらわた 赤い淫画(1981年12月25日 監督:池田敏春、主演:泉じゅん) 犯され志願(1982年3月26日 監督:中原俊、主演:有明祥子) ピンクのカーテン(1982年7月23日 監督:上垣保朗、主演:美保純) 軽井沢夫人(1982年8月6日 監督:小沼勝、主演:高田美和) ジェラシー・ゲーム(1982年8月6日 監督:東陽一、主演:大信田礼子、高橋ひとみ) (本)噂のストリッパー(1982年9月15日 監督:森田芳光、主演:岡本かおり) ピンクカット 太く愛して深く愛して(1983年1月21日 監督:森田芳光、主演:寺島まゆみ) セーラー服 百合族(1983年6月24日 監督:那須博之、主演:山本奈津子、小田かおる) ダブルベッド(1983年8月5日 監督:藤田敏八、主演:大谷直子、石田えり) セーラー服 百合族2(1983年10月14日 監督:那須博之、主演:山本奈津子、小田かおる) ファイナル・スキャンダル 奥様はお固いのがお好き(1983年12月23日 監督:小沼勝、主演:五月みどり) 女猫(1983年12月23日 監督:山城新伍、主演:早乙女愛) 縄姉妹 奇妙な果実(1984年2月17日 監督:中原俊、主演:美野真琴、早乙女宏美) OL百合族19歳(1984年7月27日 監督:金子修介、主演:小田かおる、山本奈津子) ラブホテル(1985年8月3日 監督:相米慎二、主演:速水典子) 天使のはらわた 赤い眩暈(1988年5月7日 監督:石井隆、主演:桂木麻也子)
◎東映
1963年(昭和38年)『人生劇場 飛車角』のヒットからは時代劇に代わり、明治期から昭和初期を舞台に置き換え、勧善懲悪の世界を描いた時代劇の変種でもある仁侠映画を東西両撮影所で量産し、鶴田浩二・高倉健・藤純子、若山富三郎らを主演に立て隆盛を迎え、1960年代は映画興行では他社を圧倒した。1960年代半ばから映画の斜陽化が顕著になると、岡田は「いまの世情では純情度の高いものはダメで、俳優でも純情スターより不良性感度の強いものでなければ時代おくれだ」「不良性感度のある映画しか観客は見ないんだ」等と発言し、テレビに取り込まれない客層を狙い、ヤクザ映画や、実録ヤクザものや、エログロもの(東映ポルノ)を量産した。岡田は「路線は少しづつ変わってもいいが、野性味を失ったら、東映という会社はダメになってしまうんだ」と述べていた。1973年の『仁義なき戦いシリーズ』でヤクザ映画を実録ものに切り替える。1973年から1975年の三年間は実録映画が会社総製作本数のほぼ30%を占めたが、1976年からは大幅に減少した。格闘映画では千葉真一と志穂美悦子の作品がブレイクし、千葉の格闘映画は海外でも大ヒットした。プログラムピクチャーとしてのヤクザ映画路線は1977年に終了した。正統的教養主義と闘うカウンターカルチャーが世界中で沸騰した1970年前後、日本の娯楽映画の拠点は東映にあった。1975年(昭和50年)に新たなジャンルであるパニック映画『新幹線大爆破』を公開したが、日本ではヒットしなかったものの、海外では大ヒットした。同年の『トラック野郎』は『新幹線大爆破』よりヒットしたため、シリーズ化された。映画部門が斜陽となってからは、アニメ部門、テレビ事業部、ビデオ部、不動産部門などが、映画製作を支えて行く。1988年4月〜1999年3月期決算で映画会社単独として初の年間売上げ1000億円を達成した。映画不況といわれた1980年代は、東映、東宝、松竹の大手三社はリスクの大きい映画製作に注力したわけではなく、ビデオや不動産を中心とした多角経営戦略で利益自体は上げていた。1990年代は渋谷を始め、船橋、福岡、仙台、広島など、全国の劇場再開発を手掛けた。1972年に東映洋画を設立し、洋ピンと呼ばれる欧米のポルノ映画を配給したのを手始めに、1975年の『ドラゴンへの道』や1979年の『ドランクモンキー 酔拳』などブルース・リーやジャッキー・チェンといった香港映画を中心に配給。東映洋画部ではその他にも1977年から『宇宙戦艦ヤマト』シリーズなどアニメ映画を配給して、邦画部門の不振を補ったほか、劇場用映画以外にテレビ映画の制作にも積極的に取り組んだ。時代劇が斜陽になったことから1975年(昭和50年)に京都撮影所のオープンセットの維持を画して、一部を東映太秦映画村とした。 多くの映像作家を生み出した『ぴあフィルムフェスティバル』(PFF)は、1977年12月に東映東京撮影所で開催された『第一回ぴあ展』を起源としている。1978年正月公開の『柳生一族の陰謀』から従来の量産体制による2本立て興行に代わって、大作映画1本立て長期興行路線が定着。それとともに、子会社に東映セントラルフィルムを設立して同年に『最も危険な遊戯』を第1作として公開。1988年に解散するまで本社の大作路線を補完する中小規模予算のプログラムピクチャーの製作会社として、あるいは外注したピンク映画の配給会社として活動した。1970年代後半から映画プロデューサーとして角川春樹と提携し、『悪魔が来りて笛を吹く』、『白昼の死角』、『魔界転生』を手始めに、角川映画を数多く配給し始める。1980年代に入ると提携作品や小屋(映画館)を貸すだけの買い取り作品などが増え、純然たる東映作品、純然たる東映育ちのスタッフ、キャストが作る作品が減った。 東宝は1943年の東宝争議の終結以来、ほぼ一貫して、左翼的な政治性を嫌い、エロチシズムを嫌い、暴力を嫌う『健全娯楽』路線を守ってきた。東映が暴力を鮮やかに映画的な魅力に結晶させた時期に、東宝はずっと作品的にも興行的にも東映の後塵を拝していた。東映の路線に乱れが生じ、行き詰ったとき東映は『健全娯楽』の東宝に抜かれることになる。
◎東宝
1960年代から映画は斜陽産業と言われるようになり、東宝も顕著な観客減少に悩んでいたが、大規模な量産体制を他社と共に保っていた。しかしカラーテレビの普及が本格化した1970年代になると観客減少はさらに深刻な状況となり、大映は倒産、日活はポルノ路線に転向。東宝もこの危機を脱するため、前述の東宝四大喜劇シリーズを全て終了するなど1972年に本社での映画製作を停止し五社協定が終焉する。製作部門を分離独立させて発足した「東宝映像」(現在の東宝映像美術、設立1971年、社長田中友幸)と傍系会社の「東京映画」(のちの東京映画新社、設立1983年、社長川上流一)、「東宝映画」(設立1971年、社長藤本真澄)、新たに設立した製作会社「芸苑社」(設立1972年、社長佐藤一郎)、「青灯社」(社長堀場伸世)を5つの核とした製作体制に切り替えた。しかし、東宝映画が年に数本、芸苑社と東宝映像が年1、2本しか稼働せず、外部からの買取作品・委託引受け作品の配給に力を入れ、自社の興行網を維持する形に転換する。 本社での映画製作を停止した後は、映画配給や不動産部門、芸能事務所である東宝芸能へ軸足を移しながら経営の合理化を進めた。ただし阪急グループとしてのイメージや、駅から近い一等地に座席数の多い一流映画館を多く持つため、同業他社のようなポルノ映画やヤクザ映画の製作は行わず、そのような外部製作品を配給することも少なかった。この時期、「東宝の映画館なら家族連れやアベックでも安心」といったイメージを死守したことは、後年まで続く東宝繁栄の伏線となった。1969年 - 1978年に東宝チャンピオンまつりとして子供向け映画を上映した。しかし予算的には非常にタイトとなり、評価の高い山本迪夫監督の怪奇映画の多くは2本同撮で作られており、ゴジラシリーズでは音楽や着ぐるみの使い回しが多用されるようになった。
映画製作本数が減った分、テレビ部の奮闘が目立つようになり、『太陽にほえろ!』、『俺たちは天使だ!』などがヒット。テレビ作品の収録は70年代までは砧撮影所は使用せずに国際放映や円谷プロを制作協力のクレジットで孫受け発注した。スタジオを持たない円谷プロの場合は東京美術センターなどの傍系スタジオを使用した。東宝配給の劇場映画も実際は大映京都撮影所(勝プロダクション作品など)や日活撮影所(石原プロモーション、ホリプロ作品など)で製作するものが増えたため、砧撮影所は急速に稼働率が低下、人員も離散した。1977年には、ベテランの映画監督である岡本喜八と堀川弘通両監督を解雇した。 それでも1980年代半ばまでは、東宝シンデレラコンテスト出身者や東宝芸能に所属し人気アイドルとなった斉藤由貴や沢口靖子主演のアイドル映画を東宝映画が製作するなど、独立プロダクション程度の活動は継続。この時期からはアニメーションの製作にも関与するようになる。 この後バブル景気となり、日劇、渋谷東宝会館、日比谷映画劇場、有楽座、梅田劇場、北野劇場などが建て替えられ映画興業以外もおこなう複合施設となり、資産価値を増加させた。
1990年代に入ると、自社(株式会社東宝映画)での邦画製作は「ゴジラ シリーズ」を除き行われなくなり、主にテレビ局や外部プロダクションが製作した映画を配給し、成功を収めた。 2000年以降は、ワーナー・マイカル・シネマズが優位に立っていたシネコン市場に本格的に参入し、2003年のヴァージン・シネマズ・ジャパン株式会社(現・TOHOシネマズ株式会社)の買収で、グループ企業のスクリーン数では第1位を誇っていた。 その後も日本映画界や興行界に不動の地歩を占め続け、現在に至っている。製作会社(テレビ局が多い)も大予算をかけた自信作は興行に強い東宝へ配給委託し、それがまた数字を積み上げるという好循環が重なった結果、平成期以降は一人勝ち状態が定着、21世紀にはさらに独走の幅を広げた。1980年代前半までライバルとして競り合ってきた東映や松竹とも、今では大差を出している。 また、かつて映画館用地として購入した全国の一等地の物件の賃貸を中心とする不動産事業も、営業利益のうち約4割を占め、地味ではあるが、業績を下支えする安定した重要な事業になっている。 なお同社は大手映画会社としては唯一撮影所出身の社長が存在しなかったが、2002年に初のプロデューサー経験者として高井英幸が社長に就任した。
◎山口百恵の映画(東宝の配給): �� 伊豆の踊子 1974年12月28日 西河克己 配給収入:8億2800万円 �� 潮騒 1975年04月26日 西河克己 配給収入:5億200万円 �� 花の高2トリオ 初恋時代 1975年08月02日 森永健次郎 �� 絶唱 1975年12月20日 西河克己 配給収入:9億1800万円 �� エデンの海 1976年04月24日 西河克己 �� 風立ちぬ 1976年07月31日 若杉光夫 配給収入:7億9200万円 �� 春琴抄 1976年12月25日 西河克己 配給収入:8億8400万円 �� 泥だらけの純情 1977年07月30日 富本壮吉 配給収入:9億8500万円 �� 昌子・淳子・百恵 涙の卒業式〜出発〜 1977年11月19日 根本順善 �� 花の高3トリオ卒業コンサート ライブ・ドキュメント �� 霧の旗 1977年12月17日 西河克己 配給収入:8億8900万円 �� ふりむけば愛 1978年07月22日 大林宣彦 配給収入:8億6100万円 �� 炎の舞 1978年12月16日 河崎義祐 配給収入:9億2000万円 �� ホワイト・ラブ 1979年08月04日 小谷承靖 配給収入:8億6000万円 �� 天使を誘惑 1979年12月22日 藤田敏八 �� 古都 1980年12月06日 市川崑
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