が気になりネットから抜粋。こちらも自分が気になったところだけ。
◎アイドル映画
2021年2月16日から4月24日まで、国立映画アーカイブで開催された「1980年代日本映画――試行と新生」では、「日本が経済大国となり、消費社会が到来した1980年代。映画にもさまざまな変化が訪れました。1970年代に始まる大作化の流れが一層顕著になる一方、若年観客向けのアイドル映画やアニメーションがヒットし、新たな企業やプロダクションが映画作りに参加、何よりも新しい才能が続々とデビューを飾りました。映画界のこうした構造変化は、現在にまで影響を及ぼす重大なものだったと言えるでしょう」などと「アイドル映画」がアニメーションとともに1980年代の日本映画を特徴付けるエポックであったと紹介された。
言葉の初出と普及
他の映画のジャンルがいつから呼ばれるようになったかはっきりしないのに比べて、「アイドル映画」という言葉自体は、1982年に生まれたものである。「アイドル映画」は1980年代に製作された作品を中心に語られることが多い。
「アイドルの映画」でも「アイドル主演の映画」でもなく、「アイドル映画」という言葉の初出は、『シナリオ』1982年1月号で、「アイドル映画の流れと『グッドラックLOVE』『すっかり…その気で!』『セーラー服と機関銃』」という記事だった。執筆者は寺脇研であるが「アイドル映画」という言葉を寺脇が考えたのか、『シナリオ』編集部が考えたのかは分からない。文献に見られる最初の使用例はここで、これ以前の使用は見つからない。寺脇は2020年に『昭和アイドル映画の時代』という書を出版しているが、このことについては同書の中で触れず、まえがきで「アイドル映画という言葉が使われるようになったのは、どのあたりだろうか」と書き、とぼけているのか、謙遜しているのか、ちゃんと調べてないのかわからないが、「アイドル映画」という言葉の"生みの親"は寺脇と考えられる。翌月の1982年2月号『映画ジャーナル』で、東映の岡田茂社長がインタビューで、薬師丸ひろ子主演・相米慎二監督の角川映画・キティ・フィルム製作の『セーラー服と機関銃』を棚ぼたで東映が配給し、メガヒットになったことに対して、「率直に言って配収12億円あがったら大成功...営業部は早くから10億円は来るでしょうと言っていた。封切間近に前売りに火がついたものだから12億円は固いですよと言い始めたがそんな程度だった。東宝の松岡功社長などもこの種のアイドル映画には10億の大きな壁があると言っておられ、ああそうだろうなと思ってたんですが、まあこれが19億円いっちゃったんだからねえ...」などと述べており、この岡田の話をそのまま受け取れば、東宝の松岡功が言ったのかも知れない。
「アイドル映画」という言葉の誕生の切っ掛けとなった作品名を具体的に挙げれば、たのきんトリオ主演の『青春グラフィティ スニーカーぶる〜す』(河崎義祐監督)、『ブルージーンズ メモリー』(河崎義祐監督)、『グッドラックLOVE』(河崎義祐監督)の3本と、薬師丸ひろ子主演の『ねらわれた学園』(大林宣彦監督)と『セーラー服と機関銃』(相米慎二監督)の2本、松田聖子主演『野菊の墓』(澤井信一郎監督)などの1981年公開の映画である。
1982年3月19日付けの『読売新聞』では「82シネマ・ニューウエーブ」と題して相米慎二が特集され、この記事の中でも「アイドル映画」という言葉が使われ、相米自身も「アイドル映画にこだわりはない。映画が商売になっている時代ならわがままが言えるけど、この不幸な時代に映画を撮る以上、ちゃんとスタッフを食わせる保証がなければ映画なんて撮れませんよ。ま、割り切って、いまは"小児科映画"に全力投球ってとこかな。次回作はまた小児科だけど、今度は外科に近い小児科。総合病院風にまだまだ精神科や内科も用意してますよ」と今の時代なら問題発言になりそうな表現で「アイドル映画」を説明している。
大林宣彦は1983年7月16日公開の『時をかける少女』で、原田知世に対する演出について『キネマ旬報』1983年7月下旬号で「アイドル映画」という言葉を使っている。
増當竜也は2014年の『1980年代の映画には僕たちの青春がある』という書で、「80年代アイドル映画とは何だったのか」という記事を書き、「富田靖子の『アイコ十六歳』や、鳥居かほりの『グリーン・レクイエム』などを撮った今関あきよしや、有森也実の『星空のむこうの国』や、中嶋朋子の『四月怪談』などを監督した小中和哉といった、当時の自主映画出身の若手監督作品の多くは、アイドル映画というよりも美少女映画といった呼称の方がしっくりくるのはなぜだろう。ここにはアイドルと美少女、そして萌えといったものの微妙かつ確実な差異が感じられるのだが、その点、彼らの師匠的存在でもある大林宣彦や、澤井信一郎監督といった、80年代アイドル映画を大きく牽引していった達人たちの作品が、それらの諸要素をすべてひっくるめながら展開させている事実にも驚かされてしまう」等と論じている。
アイドル映画の位置づけ
宇田川幸洋は『すばる』1986年5月号の「アイドルの顔はもう一つのスクリーンである 〔アイドル映画を解く〕」という記事で、「『アイドル映画』は、角川映画を除けば映画会社が自分で育てた映画スターでなく歌謡界からの借り物で勝負するわけだから、昔から歌手の人気におぶさった主演映画というのは常道だったとはいうものの、今の時期であれば映画産業衰退のしるしのようにも感じられ、二重の自嘲がこの言葉には漂っている。しかし、その実体はどうかというと、現在の日本映画の面白いものというと、ほとんどアイドル映画に集中しているかの観がある。大林宣彦、井筒和幸、相米慎二、澤井信一郎といった80年代の重要な監督たちとアイドル映画は、切っても切れないし、実はこのジャンルこそ、80年代の日本映画の最も豊かな部分だとさえ言っていいと思う」等と論じている。増當竜也は「人気アイドルを映画に出演させた方が得策といわんばかりのイメージが強い『70年代アイドル映画』に対して、『80年代アイドル映画』の違いが何かと問われれば、やはり薬師丸ひろ子の存在だと思う。角川映画『野生の証明』で映画デビューを果たし、相米慎二監督の映画デビュー作『翔んだカップル』で初主演、そしておそらくは愛するもののために健気に闘う少女像を初めて打ち出した大林宣彦監督の『ねらわれた学園』を経て、相米監督の『セーラー服と機関銃』が大ヒットしてブレイクした。当時は映画がテレビにとって代わられ、もはや映画から新たなスターを生み出す力を徐々に失っていたから、薬師丸は久々に映画で育てられた十代女優であったし、映画館に行かなくては彼女を見られないという存在であった。また『セーラー服と機関銃』はアイドル映画であるにもかかわらず、薬師丸のアップはほとんどなく、内容も意外に血生臭いヤクザ抗争劇で、無理やり"大人の階段のぼらせる"エロスも満載と、従来のアイドル映画の定義を大きく裏切った内容だった。今でこそ名作の冠が付いて久しいが、公開当時は戸惑い激怒しているひろ子ファンも結構多かった。つまり『セーラー服と機関銃』とは相米慎二監督が薬師丸ひろ子というアイドルを用いて、自分が撮りたいものを撮るという姿勢を貫いた作家主義的映画であり、しかもそれが大ヒットしたことによって、そういった図式がある程度許容され、やがてアイドル『80年代アイドル映画』の基盤になっていった。事実、『セーラー服と機関銃』以降、薬師丸をアイドル的に可愛く捉えた作品は皆無であった。但し80年代アイドル映画すべてが傑作だったわけではないし、また当時の映画マスコミなどが『所詮はジャリ向け』と傲満にあったのも事実である」等と論じている。
2007年9月3日から13日まで石川県金沢市の金沢21世紀美術館で、「映画の極意 vol.07 少女がつくった時代 80年代、アイドル映画の極意」というタイトルで美術館博物館クラスで初めて「アイドル映画」の特集が組まれた。ゲストは大林宣彦で、上映された12作品はこれを企画した同館プログラムコーディネーター・落合博晃が「アイドル映画の金字塔」と評価する『ねらわれた学園』『セーラー服と機関銃』『探偵物語』『メイン・テーマ』『Wの悲劇』『雪の断章 -情熱-』『恋する女たち』『トットチャンネル』『「さよなら」の女たち』『時をかける少女』『愛情物語』『私をスキーに連れてって』の12本。落合は企画趣旨として「80年代に多感な時期を過ごした人たちがクリエイティブの最前線にいることで、当時の作品や俳優が再注目されている。脇を固める俳優もしっかりしている。ただのアイドルを主演に立てた映画じゃない」と説明した。
1985年5月15日付けの『読売新聞』夕刊には「『アイドル映画曲がり角』新鮮さを失って企画力貧困―人材不足― 」という記事が載り、1985年ゴールデンウイークに公開されたチェッカーズの『TAN TAN たぬき』は僅かに健闘したが、他の松田聖子の『カリブ・愛のシンフォニー』が、前年の『夏服のイヴ』配収8億円から配収5億円弱と落ち込み、7週上映予定が5週で打ち切られ、シブがき隊の『バロー・ギャングBC』もコケたと書かれている。不入りの原因はアイドル映画全体が新鮮さを失い、観客に飽きられつつあるからと分析している。1985年の上半期は東宝と東映は、特にアイドル映画とマンガ映画中心のローティーンを組み、大人向けの映画をほとんどやらなかった。これは映画会社が危険負担を避け、営業主導で動いているからで、東宝映画は1984年は『夏服のイヴ』など6本の映画に全額出資したが、年間の収支決算は赤字。下請けに出さずに直接製作すると、人件費などの経費がかさみ映画1本最低5〜6億円の原価がかかる。そうなると無難な企画を狙わざるを得ない。映画製作の企画を練るプロデューサーは、東宝、東映、松竹とも10人前後だが、企画を立て、監督と俳優を押さえ、製作費の工面までの一切をこなす辣腕プロデューサーは数える程で、企画の貧困は、社員プロデューサーの人材不足という見方もある」等と書かれている。1985年12月18日付け『日本経済新聞』の記事に「最近では黄金時代を支えていた大人たちが映画から離れ、ヤング中心のアイドル映画が隆盛である」と書かれており、『キネマ旬報』1986年6月上旬号で同誌編集長・黒井和男が、「今年はアイドル映画が主流となっている他は、特に話題性に富んだ作品がない。アイドル映画は、アイドルについているファンが集まるもので、超人気のアイドルでもない限り、それほど大きな数字にならない。作品そのものがが面白くできていてもアイドル映画というだけで、その層だけのものになってしまう危険をはらんでいて、映画としての話題性は消えてしまうのがアイドル映画の難しいところだろう。チェッカーズ、松田聖子、シブがき隊とアイドル歌手に占領された感じの映画界だが…」などと論じているが、「アイドル映画」が興行的に大成功だったのは1981年から1986年頃までで、それ以降はやや興行的には鈍化した。『週刊平凡』1987年5月14日号には「応援企画 ぐあんばれアイドル映画

『ビー・バップ・ハイスクール』だけじゃあかん! アイドル映画不調の原因と対策を探る! 」という記事が掲載された。「アイドル映画が定着したのは1983年〜1984年頃。たのきん全盛時代あたり。当時人気絶頂の彼らを使えば、絶対に当たるということで作られたのだ。アイドル映画の象徴と言えば、薬師丸ひろ子だが、角川時代のひろ子(&原田知世)は、アイドル映画の頂点を極めたが、少しづつ配収は下降線を辿り、今年(1987年)の正月映画はKYON2主演の『ボクの女に手を出すな』との強力な二本立てだったのにズルッとコケちゃった!? また去年(1986年)のとんねるずの『そろばんずく』とおニャン子クラブの『おニャン子ザ・ムービー 危機イッパツ!』の二本立ても絶対当たるという前評判を裏切ってズッコケ〜。カリスマとミーハーという対極に位置する究極の組み合わせも、既にアイドル映画凋落の予兆だったのだろうか? 最近封切られた国生さゆりの『いとしのエリー』や、菊池桃子の『アイドルを探せ』&三田寛子の『Let's豪徳寺』も前売りの段階から不調だったという。『週刊明星』は1985年、1986年暮れに2年連続で「アイドル映画」の特集を組んだが、1987年にはやらなかった。
アイドル映画を作った人物
「アイドル映画」の名手(監督)と呼ばれる人には、大林宣彦、澤井信一郎、相米慎二、河崎義祐、舛田利雄、西河克己、小谷承靖、森田芳光、大森一樹らがいる。また、多くの「アイドル映画」を製作した角川春樹や、キティ・フィルム社長の多賀英典、ATG社長の佐々木史朗も大きな功績を残した。
ログインしてコメントを確認・投稿する