シネラでヘルツォーク祭りがあっていて、蜃気楼を観る。おもしろかった。アフリカの砂漠でSFを撮ろうとするも、現地で撮影を開始するもその直後、ホドロフスキーと違ってそのプランはあっさり放棄し、本作を制作、とのこと。いちおうドキュメンタリーのジャンルのようであるが(ウィキをチェックすると、ヘルツォークのフィルモグラフィのなかでドキュメンタリーに分けられている)、ナラティヴとドキュメンタリーの分別もない作品が多い現在においては、本作はナラティヴという方がいいように思える(もちろん、ドキュメンタリーでもある)。創造と楽園と黄金時代の3章に分かれての展開。宗教的説話をナレーションなどでは語られ、視覚には砂漠がひろがる。降臨か、冒頭の旅客機の到着がループのごとくに何度も再生される。創造の章で途中、旅客機の残骸が砂漠に見える。神すら呑み込み殺す大地か、或いは、現代のリアルにおける神の無力か。ナレーションは最初の章では女性で、次の楽園の章では男性となる。近代文明から離れた土地がいかに素晴らしいかが在住のそこでのエトランゼによって語られる。夫婦だろうか、ドラマーの男性が声でメロディーをつけ、女性のピアニストが黙々と、弾けて楽しいラテンなメロを奏でる。ナレーションは大地と人々の生活の営みの映像とマッチするか乖離するかのような不安な言葉も取り入れる。相反しながらも美しくもあるソニマージュ。曖昧ではない。主張する。詩がそこにある。風刺し皮肉めいた言葉で語られるもあるようであるが、拡がる大地は素直さを届け裏心を消し去る。シンシアなる気持ちが大地に拡がる。黄金時代の章になっても、遠景の動くものが蜃気楼のなか表される。大地と熱とともにいる。
計算され尽くされたようなカメラムーヴのハリウッドなどに比して、手動でなめるように表されるカメラアイ、久しぶりに観るからかな、フレッシュとなる、その手動。”写し取る”ということ久しぶりに感じ考えさせられる。ヒトと大地の匂いを感じる。
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