聖なる鹿殺し、おもしろかった。少年が寝ると言うて居間から抜けるときに、それではおいとまします、とするではないか?となるも、ニコールキッドと同じぐらい強度の美であるアリシア”クルーレス”シルヴァーストーンことMissアメリカをあそこに置くことによって、デッドパンなコリンの意識をあれこれ解釈させようとする。そんな選択を託す抽象性が多々おかれているな。冒頭の廊下を歩くコリンファレルと同僚から、ゆっくりトラックイン或いはトラックバックするショットやズームアウトするショットなど、もうキューブリックしていて、鏡の前でイヤリングはずすニコールキッドはそこの光と影、まんまアイズワイドショットやん!となるも、思えば、あの少年(弟の方)もどことなくシャイニングの三輪車を乗り回す少年に似ている感じであり、歩けなくなるところからが寧ろテオレマ的な神秘性を帯び、タルコフのサクリファイスなセンスも訪れ、遂にはハネケしてしまう、と、いろいろあっても、なにを描いているのかといえば、ボーイ・ミーツ・ガールなのではないかな。ボーイ・ミーツ・ガールが映像として表されるMVみたいなコアがあり、そこに、オマージュとして前述の映画作家たちの雰囲気を入れ込んで、こんなに長くなっちゃいました、なセンス。供儀なんかの儀式性も因果応報の恨み節も罪を働き罰で報いるということもコントロールされる集団ヒステリー性も、さして重要ではない、ということはないけれど、それらで見えにくくされているコアの部分、我々と同程度のジコチューにして自己欺瞞にしてエゴイストでありながらもそれは実は気付いていない強度としてもつ親たちの圧政(註1)からの自立を想う少女と彼女を利用しようとしながらも愛を悟るか悟らないかバリーコーガンのふてぶてしくも澄んだ眼のおかげでいろんな解釈を生ませる体現性があのダイナーには在る。
註1: 歩けなくなるのは少年の呪いの術ではなく圧政が原因だからではないか、という一つの解釈も生ませる。それにしても、サイエンスがダメならエクソシストを招集すればいいとは思うけれど、思いあがった現代において、コリンとニコールキッドにはそんな選択肢はないのだろう。
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