哀れなるものたち、おもしろかった。フランケンシュタインの怪物としてはベラが如何なるプロセスで感情や知識を修得していくかであり、ピグマリオンとしては彼女が誰にとってのアイドルかということであろう。怪物は性的悦によりまずは世界を習得するけれど、シモから学ぶという知識に先行することを考えると、かのメルブルックス先生のヤングフランケンのようである。まー感覚的なものがあってからの知識や感情であろう。ピグマリオンとしては、彼女のヒギンズ教授であるゴッドを喜ばせるためなのでも、彼女を世界に連れ出してくれたダンカンを満足させるためでもなく、彼女を見つめる彼女自身の眼差しに彼女の成長が写し出されるのであろう。ニューズウィーク誌に、やたらとフィッシュアイレンズのショットが誰の視点のものかも分からずあると書いてあったが、私の印象では、水晶玉でも万華鏡でも、エディソンのキネトスコ―プは分からないが、そうした覗き玩具に見える光景は歪がまず感じられるのではないか、となり、彼女の生成そのものがそこで語られるのであろう。これは覗き窓から見る寓話であり、成長の物語である。ピグマリオンはインディペンデンスに沿って成される。ランティモス的には籠の中の乙女たちのトランクのなかにいる娘のように(もしかしたら窒息死しているのかもしれないが)塀から出たあとのフリーダムを思い描かせ、ロブスターのようにいかなる文明から離れ無に帰す欲望を思い描かされ、自立や自由というよりも根源的なものへの志向が謳われているように思える。
聖なる鹿殺しは、冒頭の廊下を歩くコリンファレルと同僚から、ゆっくりトラックイン或いはトラックバックするショットやズームアウトするショットなど、もうキューブリックしていて、鏡の前でイヤリングはずすニコールキッドはそこの光と影、まんまアイズワイドショットやん!となり、それが理由で止めたわけではなく(でもそれも生理的な理由になっているかもしれない)お酒が入っていたのでちゃんとしたとき観ようとと止めたのであるが、返却日がすぐそこだからそろそろ観なければならない。本作哀れなるものたちにも頻繁ではないがそうしたものが感じられる。また、本作のじっくり主人公を捉えていく在り方はなにかバリーリンドンをリマインドさせ、(冷徹ではなく)クールな視線で捉えていくランティモス的映画的現実は、こうしたやり方でしかヒトというものをほんとのところ現出できないのだろうな、とキューブリックを照らし合わせ錯覚的に思ってしまう次第となる。それにしてもやはり、とてもユニークな表現方法である。カメラアイの人物への距離感はフォントリア―やハネケとに似ている。なにがプアシングスなのか、マーシーマーシーミー、それは哀れられる我々自身のことなんだろうな。
ログインしてコメントを確認・投稿する