水俣曼荼羅、感動する。センシティヴなイシューゆえ書けないな、となるも、上映後の原一男さんの講演と接し、観ながら思い感じたものと重なるものあるな、となる。観ながら、ここでの曼荼羅とはなにかな、人間模様なのか、となるも、それは本作で表されている出来事においてとても薄っぺらワードかな、となるも、原さんが講演で話されていた生駒さんや坂本しのぶさん、熊本の研究者の先生の人懐っこさある表情や所作が音声・映像として有り、やはり人間模様がそこにはあるな、となる。ある意味、エロス(性=生=聖)がそこにはあり、闘争とともにあるもの(エロスそれそのものが原一男のテクスト顧みれば闘争としてあるのかもしれない)として、本作は集大成的なものがあるのか、ともなる。もっとも、講演では来場者をまずは作品に惹きつけさせるために使われた、ある種の抜粋的な事かもしれないが、それでも話されたことは真のことであろう。震とはなにか。震美術論を読んだことないから日本と地震の関わる歴史を知らないが、日本の歴史と列島に横たわる地震などの天災の重要さは今起こっていることで充分に分かるものである。原子力も歴史と列島と共にするものであろう。ゴジラとアトムがある、も、ポストモダン以降は未来万進神話も疑念となることでアトムを後景化し、ゴジラは未来社会への恐怖としてどんどん前景化される。ヘドロという言葉があったが(もはや死語なのであろう、それゆえ「忘れ去られた」ものとなっているのであろう)、原子力と天災だけが歴史と列島におけるキーワードではないこと思い出させられる。工業化近代化現在化にまつわる怖ろしい遺産である。そこにある、朗らかだけではない人間模様。本作の多くを迫真せまり占める裁判闘争はもちろん脇におかれるものではない。行政は公僕ではなく権力としてあり、権力が強すぎるワードなのなら、ナショナルを安定させるシステムとしてあり、市民の救済は小なるもの。社会は生成されど、ヒトは別の生成をそこに持たざるえないのか。記憶はこの現在を形作り、生きるヒトのそれまで、そしてこれからが縮約される今此処がラストのご婦人のストップモーションに刻まれていること、痛切となる。
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