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2014年04月21日23:42

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「佐伯祐三とパリ」展/静岡県立美術館

昨4/20(日)、静岡県立美術館で開催中の「佐伯祐三とパリ」展を観た。
佐伯の絵にまとめて接したのは初めてだ。

今展では、短い佐伯の生涯の作品を時系列で辿り、帯仏中関係のあった画家達(含むブラマンク)の絵、そして、当時のパリの街角を飾った著名作家のポスターも併せて展示、時代を想わせるものになっている。

・会期 4/4〜5/25

佐伯祐三は1898(明治31)年に大阪の寺の次男として生まれた。男4人女3人兄弟だった。
そして、1928(昭和3)年、パリ近郊で亡くなった。僅か30歳だった。
創作期間が短かった事もあるし、第2次大戦で焼失したものもあり、現存するものは多くない。
作品の多くを山本發次郎という大阪の実業家が持っていたが、それらは全て大阪新美術館準備室に寄贈された。
今回の展覧会は、その大阪新美術館準備室所蔵品が殆どだ。

・佐伯作品 58点
・関係者作品 18点
・ポスター 29点

以上合計105点と、資料が16点である。(前後期含む)


佐伯の死は、直接ではないが結核に原因がある。
日本時代から身体が弱く、結婚(1920)の翌年には既に軽い喀血を起こしている。
彼の生涯と作品は、まるで1928年の死に向かう1本のレール上の疾駆の如き様相だ。
彼の周りにも、若くて死ぬ者が実にたくさんいる。
展覧会を通して最も強く胸に迫ったのはこの事である。

死にまつわる事柄を中心に彼の生涯を追い駆けてみたい。

佐伯祐三は若くして油絵を描き始め、中学を出ると上京して藤島武二の指導を受ける。そして、1918(大正7)年、20歳で東京美術学校に入学。
21歳時に池田米子と知り合い、22歳11月には学生結婚するのだが、その直前9月には父祐哲が亡くなっている。米子は川合玉堂に日本画を学んでいた。
画学生が絵で生活できる訳もない。経済観念は乏しかったと言わざるを得ない。たとえ寺が大きくとも、次男迄仕事もせずに暮らせるとは考えにくい。
長兄の祐正は、滞仏中の弟を気遣って幾度かパリを訪れている。兄が経済的な援助をしたか。また、妻米子の実家は象牙細工商であるから、そちらの線からの援助があったか。恐らく両方だろう。

23歳で現新宿区中落合にアトリエ付きの家を新築。ここには、画学生仲間がよく集まった。
展覧会の入口に、この頃仲間でこしらえた佐伯のライフマスクが展示されている。気持ちのいいものではない。それはどう見てもデスマスクにしか見えない。もう、佐伯の死に向けた助走は始まっている、そんな風に思えてならなかった。

同1921年、弟祐明没。
佐伯本人も体調を悪くし、3ヶ月休学。その間に、先に述べた「軽い喀血」を起こしている。「軽い喀血」という表現の意味するものが背筋を震わせる。

翌1922(大正11)年2月、長女彌智子誕生。
そして、1923年にようやく東京美校西洋画科を卒業。
この年の9/1、関東大震災。
佐伯は既に渡欧を決めていて、その準備の為の荷物を米子の実家に預け、自らは信州の温泉で養生をしていたが、荷物の類は全焼した。

それでも、同年11/26に神戸からフランスに向けて出港する。
この神経は判らないのだが、その旅には妻米子も3歳に満たない彌智子も連れていく。この事が何を意味するかは、後に書く事になる。
1923年日本国内で描いた中に『彌智子像』がある。後の画風とは全く違うものだ。

1924年1/3パリ着。
同年初夏、パリ近郊オーヴェール=シュル=オワーズ(ゴッホ終焉の地)にフォーヴィスムの画家モーリス・ド・ヴラマンクを訪ね、持参の裸婦像を見せる。彼は「アカデミック!」とひと言言ったそうだ。フォーヴィスムの画家が「アカデミック」と言ったら、それは批難以外の何ものでもない。佐伯のショックは大きかった。彼は画風を変える。

1925年7月、兄祐正が仕事のついで(という事になっている)に、パリの佐伯を訪ねる。弟の身体を思い、帰国を促すのが本当の目的だったようだ。
同9月、サロン・ドートンヌに入選。

1926年1月、佐伯祐三夫婦と彌智子、兄祐正とパリを出る。
こうして2年間の第1次フランス滞在は終わる。
同年3/15神戸着、4月、中落合の家に戻る。

5月、里見勝蔵,前田寛治,小島善太郎,木下孝則と「一九三〇年協会」結成。1930年には花開くという意味が込められていたらしいが、佐伯はその年を生きて迎える事はない。
9月、二科展に滞欧時作品19点を特別陳列、二科賞を受ける。

佐伯の心の中にはフランスへの帰心が渦巻いていた。
『下落合風景』(1926)という作品がある。
「木と紙でできた町」(本人の言葉)には生気がない。
再渡仏資金集めの為の画会を行う。

1927(昭和2)年、第2次フランス滞在は8/21に始まった。
荻須高徳,山口長男,横手佐貞美,大橋了介が佐伯を訪ねる。

1928年2月、同メンバーと佐伯は、パリ東近郊に写生旅行。
3月、雨天での制作がたたり、寝込む。
4月、悪化。
6/20、失踪、自殺未遂。
6.23、精神病院入院。食事の拒否を続ける。
8/16、同院にて死去。荻須等が看取る。
そして8/30、彌智子(6歳)、滞在のホテルで没。結核だった。
小さいながら、彼女はフランス語をよく喋ったと、『彌智子像』(1923)のキャプションに書かれていた。

絵の仲間だった前田寛治は1930年に33歳で、横手貞美は1931年に31歳で亡くなっている。横手も結核だった。

米子夫人は、中落合の家に戻り、1972年迄生きた。享年75歳。そこは、今、新宿区立佐伯祐三アトリエ記念館となっている。
米子は1946年に三岸節子等と女流画家協会を創立。二紀会を中心に活躍した。
帰国後、中落合での44年間は夫人にとって長かったろうか、短かったろうか。


写真1『立てる自画像』(1924)
・・・ブラマンクに批判された直後の作品。粗削りなタッチ。顔は事後削り取られた。この裏には黒々とした『夜のノートルダム(マント=ラ=ジョリ)』(1925)を描いた。『立てる自画像』は葬り去ったつもりだったのだろう。
偶然だろうか、松本竣介に殆ど同じ構図の絵がある。『立てる像』(1942)。<参>http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1888605932&owner_id=3341406

写真2『壁』(1925)
・・・年季の入った石の壁。厚塗りのマチエール。確かに日本ではこのような絵は描けない。『下落合風景』(1926)のキャプションに書かれていた本人の言葉を思い出す。
1,2共、第1次仏滞在中の作品。

写真3『モラン風景』(1928)
・・・最晩年、第2次仏滞在時の作品。土地は斜面なのだろうが、その上に建つ家々も斜めになっている。落ち着かず、寒々しい空気が吹き抜ける。村には、通りにも窓にも誰一人いない。佐伯は、家から出る煙を戯画のように粗雑に描いた後、ダメだというような事を言ったそうだ。既に精神を病んでいたのかもしれない。
 

・・・・・・

「新収蔵品展」

2013年度に取得した県美のコレクション15点の展示。

・会期 4/1〜5/25

黒田清輝『富士之図』6点組(1898)板,油彩
岡鹿之助『献花』(1958)キャンヴァス,油彩
平山郁夫『秋天東寺五重塔』(2004)紙本着色
他
 
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