8/3(木)、シネマイーラ浜松で『共に生きる 書家 金澤翔子』を観た。
ダウン症の書家 金澤翔子と母 泰子、二人は二人三脚で苦難を乗り越えてきた。そして、今、翔子の書は多くの人々に感動を与えている。どのようにしてこうした事が実現したのか、映画はその不思議に迫ったドキュメンタリーである。
・題字は東日本大震災後に翔子が書き、その後も繰り返し書いているもの。
私は金澤翔子の書を2度観にいっている。
以下はそのレポート。
・2021年2/14「龍雲寺〜世界一大きい般若心経」
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1978411740&owner_id=3341406
・2021年10/4「金澤翔子の書展」
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1980511102&owner_id=3341406
翔子が生れたのは1985(昭和60)年、母 泰子42歳の年だった。
泰子は娘がダウン症だと知ってショックを受けた。自分のせいだとして我が身を責め、周囲に障害の事を隠して育てた。
子供の障害を告知された親は、誰もそう考えると思うが、どうやったら社会に迷惑をかけない人間に育てられるのか、そんなマイナスの方向ばかりを考えていた。二人で死んでしまおうと思った事もある。
泰子は書道家で教室を開いていた事もあって、一人で黙々と作業する書道なら人に迷惑をかけないのではないかと思いついた。それで1990年、5歳の時に書を始めさせてみた。
翔子は最初小学校の普通学級に通っていたが、4年生になって特別支援学級に移るように言われた。友達はいなくなり、ショックを受けた翔子は学校に行かなくなった。何とかしなければいけないと思いついたのが、276文字ある『般若心経』を大きな紙に書かせる事だった。
しかし、母はついつい怒ってばかり。親が子供を教えるのは本当に難しい。
それでも翔子は涙を流しながら続けた。1行終わると「お母さま、ありがとう」と言い、暖かいミルクティーを入れてくれた。
この作品はのち『涙の般若心経』と題されて、個展で展示される事となった。
あの時、翔子は3,000字は書いた。それで書(楷書)の基本が身に着いた。
小学校で普通学級に通い続けていたら、翔子は書家になっていなかった、今の翔子はない。
泰子の言葉は明解で、説得力がある。
同じ書道教室にSEKAI NO OWARIのNakajinが通っていた。
映画の中では、その教室とその頃の翔子の思い出をNakajinが語っている。
1995年、10歳、全日本学生書道連盟展に《花》一文字の作品を初出品。
1999年、14歳、同展に《龍》を出品、銀賞受賞。
この年、翔子に書を学ばせる事に賛同し、彼女の才能を誰よりも認めていた父 裕(泰子の夫)が心臓麻痺で急死。52歳だった。
目の前が真っ暗になった。
それでも同展への出品は続き、毎年賞を重ねた。2001年には最高賞の金賞を受賞。
2004年、「主人が生前言っていた言葉、”翔子が20歳になったら個展をやろう。そして皆にきてもらい、翔子がダウン症である事を公表しよう” を思いだし、それに向けて準備を始める事とした。」
その時翔子18歳。
泰子は言う、「生涯に一度だけ、翔子の個展を盛大に開いてあげよう。結婚はできないかもしれないから、結婚式と披露宴のつもりで、思いきって夫が遺したお金を使って最高の展覧会とパーティをやろうと決意したんです。夫も喜んでくれるだろう」。
そしてついに2005年が到来。
「翔子が20歳になったお祝いに、東京銀座で最高の会場を借りて個展を開き、豪華な図録も作った。帝国ホテルで記念レセプションも開催した。ここ迄やれば、私が倒れ、翔子が施設に入る事になったとしても、認めてもらえるのではないか」そんな思いもあった、と。
この個展はメディアに取りあげられて話題になり、多くの来場者があった。翔子の書を観て涙を流す人もいた。
全力を尽くして泰子は満足したが、当初思っていたように、これは一回限りの展覧会ではなくなった。
その後12年の間に、滋賀の延暦寺、平泉の中尊寺、鎌倉の建長寺、京都の建仁寺、奈良の東大寺から薬師寺、伊勢神宮、熊野大社、厳島神社、春日大社等で揮毫奉納を行い、いわき市、山形市他、翔子の名を付した美術館や記念館が4つできた。
2015年、ニューヨークの国連本部で開催された「世界ダウン症の日」記念会議には日本代表として出席しスピーチも行った。
2019年、ローマ教皇の訪日の機会に、バチカンに《祈》を寄贈。その返礼に、東京ドームで行われた教皇ミサに特別来賓として招かれ、ローマ教皇庁から金メダルが授与された。
他にも、挙げだしたらキリがない程だ。
翔子は、筆を持つ以前に、課題をどう仕上げるか、全くプランを立てないとの事だ。
驚く一例に、21歳で建仁寺に奉納した《風神雷神》がある。ここには俵屋宗達の国宝《風神雷神図屏風》があるのだが、翔子は事前にそれを見ていない。にも関わらず、並べられた400年の隔たりがある二つの作品は見事に呼応しあっている。
映画では、浜松龍雲寺に収めらた《世界一大きい般若心経》も採りあげられている。
冒頭に掲げた2021年2/14のリンクで、その成り立ちと、龍雲寺の涅槃堂に収められる事になった経緯について触れているので、写真共々、是非ご覧頂きたい。
この作品は、元々2015年、翔子30歳の時に、愛知県立美術館で制作したもので、クレーンで吊って同館壁に展示したのだが、展示後は、保管場所がなく、捨てるしかないと思っていた。ところが、ある住職が欲しいと申し出た。
それが龍雲寺の木宮行志住職だった。木宮はその後、作品のサイズ(4×16m)に合わせて新しい堂を建てて常設し、誰にでも観られるようにした。
木宮も映画に出演し、その辺りについて語っている。
そして、この年、翔子は実家の近くにマンションを借り独り暮らしを始める事となった。
泰子は、翔子が20歳になった時、「30歳になったら一人暮らしに挑戦しようね」と話しており、その経緯で実現したのである。泰子がいなくなった時の事を考えての計らいであった。
内々心配はしただろうが、翔子は、買い物も料理も掃除も一人でして、実家には帰ってこない由。
地元(東京都大田区)の商店街が好きで、スーパーでなく、専門店で欲しい物は買う。店の人も翔子とのコミュニケーションを楽しみにし、見守ってくれている。
障害者の自立と地域のあり方の良い例となっている。
柳田流四代目当主で泰子の師でもある柳田泰山が、ある日翔子の作品《恕乎(じょか)》の前に立ち、彼女に訊いた、
「何を考えて書いてるの?」
「お母さま」(→*)
「この上の字と下の字でどっちが難しかった?」
「どっちも一緒、楽」
翔子は、泰山に問われると、首をひねる間もなく即答している。
どうやら漢字の意味を考えて書いている訳ではないようだ。
また、誰の質問であったか、翔子は別のところで答えている、大勢の前での揮毫時にも彼女は全く緊張しない、と。
泰子は別の機会にこんな事を言っていた、
「知的障害を持って生まれた翔子には、競争心というものがありません。いつも穏やかでニコニコしている。私たちは人をうらやんだり、争ったりして苦悩しますが、翔子は別な世界にいます」、
「翔子には、偉い人や有名人になりたいといった社会的な成功への欲望が全くないんです。あるのはただ一つ、皆に喜んでもらいたいという思いだけなんです」。
〈後記〉
(→*)孔子の弟子 子貢は師に問うた、…一言、生涯貫き通す言葉はありますか?…
孔子は答えた「其恕乎」、…それは恕(思いやりのこころ)であろうか。自分がして欲しくない事は、他人にもしてはならないものですよ、と。…
祥子は泰山に訊かれてただ「お母さま」と答えているが、もう少し言葉を足せば、母が常日頃私に一番大事な事として話してくれるのは、何よりも思いやりの心(恕)だ。
だとすれば、「恕乎」と書くに際して、翔子が他の何でもない母親を思ったというのは、実に尤もな事ではなかろうか。
…ちょっと考えすぎだろうか?
監督・撮影 宮沢正明
構成 鎌田雄介
編集 宮島竜治
出演 宮田亮平(元東京藝大学長),千住博,吉田正道(建長寺管長),木宮行志(龍雲寺住職),柳田泰山(柳田流書家四代目)
2023年/日本
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