愛知県一宮市にある三岸節子記念美術館(*)に、新たなコレクションが加わった。
1964年に節子が描いた《太陽》その他である。長く遺族が持っていたものだが、2022年度に記念美術館に収められた。
このエネルギーに満ち溢れた太陽は、大磯の水平線から上がってくるそれだと考えられる。
7/21朝刊の中日新聞記事より図像参。
三岸節子(1905-99)はこの1964年に、長野県軽井沢町から神奈川県中郡大磯町にアトリエを移している。
1957年、体調を崩した節子は、同年軽井沢の山荘に移り、外とのつながりを絶って創作に専心した。自らを孤独の中に置き、自己の内面を見つめようとした、苦しく葛藤の日々だったようだ。
下は同新聞より、1962年制作の《飛ぶ鳥(火の山にて)》。
暗い色調で、新聞の写真ではよく見えないが、浅間山の噴火で焼け焦げた木々の中、鳥は瀕死のように見える。
節子は「飛ぶ鳥」と題した作品を多数描いている。
東京国立近代美術館所蔵の《飛ぶ鳥》も1962年の制作だ。
《飛ぶ鳥(火の山にて)》の図像の下に掲載された写真は、大磯のアトリエとその前でスケッチをする節子である。
ここから太平洋に陽の昇るのが見えたのだろう。
大磯の前に住んだ軽井沢の山荘は以下である。
長男でやはり画家となった黄太郎(1930-2009)が、「軽井沢の冬は寒いでしょう、それに暗いし。どこか明るい場所に移った方がよいのではないか」と移住を勧め、1964年に大磯への引っ越しが実現したらしい。
大磯で活発な創作を再開後、節子は1968年63歳になって渡仏、20年余をヨーロッパで活動する。そして、1989年に帰国して戻ったのはやはり大磯のアトリエであった。
1999年に心不全で倒れたのもここであり、最後は大磯の病院にて94年の生を閉じた。
節子は「私は大磯に移り住んで太陽画家となった」と語り、同アトリエを「太陽の家」と呼んだ。
以下、7/21の記事本文。
(*)私は2012年10/10に三岸節子記念美術館を訪れている。
彼女の20歳の《自画像》(1925)も絶筆《さいたさいたさくらがさいた》(1998)もここで観た。
今年は節子の研究が進んだ年である。
5/12にNHK-BSが放送した『春子と節子〜”女流”画家を超えて』は秀抜なドキュメンタリーだった。
7/16にNHK-Eテレの「日曜美術館」が放送した『友よ!我らの美しき野は…、画家・三岸節子と長谷川春子』は、同じテーマで再編集を行ったものだった。
ディレクターは共に藤村奈保子。
『春子と節子〜”女流”画家を超えて』については以下レポートを参照頂けたらありがたい。
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https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985139721&owner_id=3341406
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https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985143338&owner_id=3341406
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