5/12(金)にNHK-BSで放送されたドキュメンタリー『春子と節子〜”女流”画家を超えて』(前編・後編)を観る。
3/7の再放送だが、元はと言えば、2022年8/27にNHK-Eテレの「ETV特集」で放送された『女たちの戦争画』の再編成作品と言えるだろう。
再編成と言ってもタイトルも違い、方や60分、本作は1時間40分で、本来の制作意図はこれによってようやく充足されたと考えられる。
芸術家の世界におけるジェンダーの問題が、第2次大戦と重ねられ、完成度の高い番組に仕上げられた。
「春子」とは長谷川春子、「節子」とは三岸節子。
共に戦中・戦後を生きた画家で、画壇における男女差別の壁に苦しみ抵抗したが、途中で道を違え、全く異なる生き方をした。
その背景となる社会のありさま、二人の選択とその後を、報道写真家 大石芳野(1944- )の目を通して追う。
東京日本橋の裕福な家に生まれた長谷川春子(1895-1967)が画家を志したのは1920年、25歳と遅かった。日本画を鏑木清方に師事、洋画を梅原龍三郎に学び、1929年にはパリに留学、レオナール・フジタとも交流し、現地で2度個展を開く迄になった。2年後に新進気鋭の画家として帰国。
文筆家で16歳年上の姉 長谷川時雨(1879-1941)が1928年に創刊した「女人藝術」は書き手も編集者も皆女声で、女性の地位向上のための総合誌だった。
姉に誘われ、春子は誌上に伸びのびとした挿画を描いた。
一方、三岸節子(1905-99)は愛知県の地主の家に生まれたが、先天性股関節脱臼のため抑圧されて育った。そして、15歳頃父親の経営する毛織物工場が倒産。
高校を出るとすぐ家を離れ、東京に出て洋画家の道を歩む決心をする。岡田三郎助に師事、女子美術学校に編入学、首席で卒業するが、画壇には厳しい男女格差があり、自立は困難だった。女性が描くべき絵は、小動物、花、子供等が相応しいとされていた。
天才ともてはやされて画家デビューした三岸好太郎(1903-34)と19歳で結婚。芸術家同志互いに高め合う生活を夢見ていたが、夫は奔放な生き方を辞めず散財を取り返し、彼の家族との同居生活の中で家事は全て節子が負う事となり、絵を描く暇は夜しかなかった。
この時代に描いた20歳の《自画像》(1925)がこれである。
射るような眼差しで唇を噛んでいる。
だが、結婚10年、好太郎は子供3人と借金を残し、病のため旅先で急死。31歳の若さだった。
節子は画家として生き直す決心をした。
こういう中で、春子と節子は出会い、親交を深める事になる。
春子は「女人藝術」誌仲間を紹介し、節子に装丁や挿画の仕事を回した。
春子はまた、女性画家だけのグループ「七彩会」を1936年に結成、同年に第1回展を開いた。その発起人の中に節子の名もあった。
だが翌1937年、日中戦争が始まり、更に国家総動員法が施行され、国民は戦争へと駆り立てられていく。
春子の姉 時雨は女性達に呼びかけ、「輝ク部隊」と名付けた慰問団を結成。前線の兵士を鼓舞するための慰問袋に「慰問文集」を入れた。その表紙絵は春子が描いた。
「女人藝術」誌に『放浪記』を連載し既に大家の仲間入りをしていた林芙美子に続き春子も大陸に渡り、従軍記を書いた。
1941年には太平洋戦争が始まり、戦争は拡大の一途を辿る。
戦局が悪化すると、軍は国民の戦意を煽るため、美術をプロパガンダに利用していく。
藤田嗣治ら著名画家を戦地に派遣。そこで描かれた作品により、全国で「戦争画」展を開催、多くの人々が押し寄せた。
春子はこうした状況を、女性画家の存在をアピールし社会的地位を向上させるチャンスと捉えた。
1943年2月、陸軍の指導の下「女流美術家奉公隊」を結成、春子が委員長に就任。春子に引っぱられて節子も委員に名を連ねた。
奉公隊は陸軍本部の中に事務所を与えられ、画材も配給された。
ある日、奉公隊に少年兵を描く命令が降りた。
戦局が更に悪化、兵力が逼迫する中、陸軍は奉公隊に「少年兵」展の開催を指示。
世の母親達に息子を兵士として差し出す呼びかけに役立てるのが目的だった。
「戦ふ少年兵」展は1943年9月に開幕、全国を巡回した。
多くの母親や子供達がこれを観にきた。
節子のこんな文章が残っている、
「陸軍報道部のY大尉、あの方がしばしば画家の面前で絶叫された、
"今、日本は一人の優れた芸術家を必要としない。傑作よりも、一人の少年航空兵を、一人の軍人志願者を、戦力に導いてくれる、戦争協力画、愛国にかりたてる作品を欲している"」。
節子は軍の本音を理解、奉公隊から離れる決意をし、春子に告げた。
春子は激昂し節子に激しい言葉を浴びせかけた。
節子はのちに書いている、
「あなたに協力しなかった私をあなたは衆目の前で非国民とののしった」。
女性全体の地位の底上げを他の何より重視する春子と、自らの芸術の高揚を志す節子はここで擦れ違ってしまった。
春子は節子を失い、奉公隊を一人で率いていく事に邁進した。
1943年12月、陸軍から春子に大きな仕事が舞い込んだ、描くテーマは戦時下の女性達の暮しである。
戦局が悪化の一途を辿る中、国は国家総動員法を進め、戦線に出た男性達に代わって女性達に銃後の労働を担う事を求めた。
それ迄妻として母として家庭を守ってきた女性達にとって、男性と対等に社会で働くのは初めての事だった。
新しい仕事を担った女性達の姿を描き、陸軍美術展に出品させるのが軍の狙いだった。
奉公隊に巨大なカンヴァスが用意された。誰もこんな大きな絵を描くのは初めてだった。
春子は皆を叱咤激励した。
この経緯を記憶していた女性画家達は、後年語った、
「長谷川さんは江戸っ子弁でばあっとまくしたてる。この人は駄馬だから駿馬に変えてやるんだって」、
「長谷川さんがいなければ、奉公隊なんていうものは成り立たなかった」、
「後世に残す記録画なんだからと長谷川さんが号令をかければ、皆そうだそうだと言って一生懸命やった」。
1944年3月、奉公隊員25人が2ヶ月半で完成させたのは女達が女達の姿を描いた幅3m、2枚組の大作だった。
《大東亜戦皇国婦女皆働之図》〜春夏の部/福岡筥崎宮(はこざきぐう)所蔵
カメラを肩にして左に立っているのは大石芳野。
同〜秋冬の部/靖国神社遊就館所蔵
カンヴァスには、女性がそれ以前にはやる事のなかった様々な仕事に従事する様子がコラージュ風に描き込まれている。
彼女らがどんな仕事をしているのか、美術史家の吉良智子は1つ1つ調べてみた。
そこには42種類の労働に従事する女性達がいた。
旋盤工、パラシュート縫製、信号旗振り、塩田での塩生産、鍛冶、大工、等々。
どれも、旧来からのいわゆる"良妻賢母"型の仕事ではない。
吉良は更に、多くのシーンが直接の取材でなく、新聞や雑誌の写真を基に描かれていた事も突き止めた。
一方、節子は家に籠り、少ない絵の具を工夫して絵を描き続けていた。
(続く)
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