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2023年05月27日13:00

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ドキュメンタリー『春子と節子〜"女流"画家を超えて』��

(続き)

遂に戦争が終わり、女性達に新しい風が吹き始める。
1945年12月、女性の参政権が認められた。
翌年、日本国憲法が公布され、男女平等が明記された。
節子は、描き溜めていた絵を集め、終戦後僅か1ヶ月で個展を開いた。
焦土となって色のなくなった東京、人々の心を自分の作品で少しでも彩れないか、元気づけられないか、と思っての事だった。

1947年、女性画家達は「女流画家協会」を設立。彼女達がリーダーに選んだのは春子でなく節子だった。

春子は、美術関連団体の中で女性画家としてただ一人「戦争責任を負うべき者」として列挙された。
結局法的な処分はされなかったが、元「女流美術家奉公隊」で春子に背を向けた女性画家は少なくなかった。
当時、多くの戦争画が、描いた画家本人によって焼却された。
例の《大東亜戦皇国婦女皆働之図》も処分すべきだとの声が起こった。
春子は激しく反対した、
「戦争中、ひたすらに働く女性を同じ女性が描いたこの絵は、貴重な歴史画であり風俗画だ」、「戦争が悪かったからという事でそのまま焼き去ってよい作品ではない」。

春子の訴えを聞いた知り合いの宮司の申し出で、行き場を失った2枚の絵は、福岡筥崎宮に引き取られた。(のち1枚は靖国神社に引き渡される。)
春子は画壇の一線から退いた。

美術史家吉良智子はこう評価する、
「戦後の女性画家達にとっては不都合な絵だった。
これらの絵は、その責任を春子をスケープゴートにして忘れ去った方がいいと考えられた。
戦後、新しい社会で新しいスタートを切るにはお荷物でしかなかった。
戦争に深く関わったある種加害者的側面と、女性が男性社会から差別された存在であったという被害者的側面、そうした加害と被害の交差点にこの作品はあったのではないか」。


時代の波に翻弄された女性画家達は、その後の人生をどう送ったのか?

女流という事だけでもてはやされ満足する一部の人達に節子は落胆し、女流画家協会を4年で脱退。
1968年、63歳で節子は日本を離れ、フランス東部の小さな村ヴェロンにアトリエを構えた。
世間との交渉を絶つように、一人制作に打ち込み、孤独に身を置いて節子は己の芸術世界を探求していった。

節子が帰国したのは1989年、84歳だった。

一方、春子は画壇を離れ、随筆を書く等して生活をしていた。
多くの女性画家に背を向けられた春子に、節子は手紙とも言うべき文章を書いた。
『女流画家の友へ』
「長い間、あなたも私も、”女流”画家という苦しい看板の下で、闘いつづけてきた。
女なんぞが絵を描いて何ができるかといわぬばかりの、むごい扱いばかりを嘗めさせられて今日に来た。
戦時あなたに協力しなかった私を、あなたは衆目の前で、非国民とののしったけれども、再びあなたに逢うときは、芸術の愛と喜悦にあふれたあなたを見たい。」

節子からのエールを得た春子は、余生をどう生きただろう?

戦後春子から皆働之図を託された筥崎宮、ここに春子が最晩年に描いた作品が遺されていた。
それは女性文学の傑作『源氏物語』を描いた絵である。パステルや岩絵の具の明るい色、踊るような軽やかな線、153枚に及ぶ《源氏物語五十四帖》(1958-65)。それは従来の源氏物語関連の絵画とは全く違う。
60歳を過ぎて春子はこれに取り組み始めた。
独身を貫いた春子は、電話も止められそうになった程の困窮の中、長年に亘ってこの制作に打ち込んだ。
初々しさに溢れる女性、男女の機微に触れ身を焦がす女性、春子が描いたのは愛と喜悦に溢れ、それぞれの人生を活き活きと生きる女達達の姿だった。
その中に、満開の桜の夜、月を見あげる「朧月夜」を描いた1枚がある。
自由奔放な性格の朧月夜は時の天皇との結婚が決まりながら、光源氏と禁断の恋に落ち、自らの地位を失う。

大石芳野はこれを見て思う、この表情は彼女自身だ。
何故源氏物語を描いたのか分からなかったが、これを見て、自分を源氏物語に身を置いて描きたかったのだと理解できた。
朧月夜は自分が好きになった人との恋によって人生が変わってしまった。
戦争に惚れ込んだがため責任を取らされてしまった春子。
社会に翻弄されてきた自分の一生を描かずにはいられなかったのではないか。
自分は画家として何をこの人生でやってきたのか、そして何を遺していくのか、自問自答したのではないか。

この作品を描き上げた2年後、春子は一人暮らしの自宅で倒れ、72歳で世を去った。
春子は完成した《源氏物語五十四帖》に添え、「女性画家達の活躍を祈りたい」という言葉を遺した。

自らを孤独に追い込み画家としての研鑽を重ねた節子。
春子が亡くなった年、節子は一つの念願を実現させた。
それは自分を苦しめた夫 三岸好太郎の美術館を造る事だった。
節子は好太郎の作品を見つけては買い戻す事を続けていた。
そして、集めた作品220点を好太郎の故郷 北海道に寄贈。北海道立三岸好太郎美術館に展示し、改めてその芸術性の高さを世に問うた。
家庭を顧みず、節子に死を思わせる迄追い詰めた好太郎だったが、対等な画家として見た時、好太郎には紛れもない才能があった。
一人絵の道を追求するうちに、節子の中で好太郎への思いは感謝に変わっていった。
彼は、絵画というものがどういうものかという事を私に目を開かせてくれた。あらゆる点で才能豊かな彼と10年一緒にいられた事は、彼女のかけがえのない人生の出発点となった。

1994年、89歳、節子は女性洋画家として初めて文化功労者に選出された。

そして90歳代を迎える頃、最後の作品に挑み始める。
それは現在愛知県一宮市三岸節子記念美術館にある絶筆《さいたさいたさくらがさいた》(1998)だ。
フォト

晩年を過ごした大磯のアトリエにある山桜の老木を描いたもので、3年がかりで描き、93歳で完成させた。
溢れるばかりの色と光。それはジェンダー差別を乗り越えて活き活きと生の力を放っている。
私は2012年10月に三岸節子記念美術館を訪れ、前掲の《自画像》と伴にこれを観ている。圧倒的な力に満ちていた。

これを完成させた翌年、節子はアトリエで倒れ94年の生涯を閉じた。

最晩年の節子の言葉、
「真実を求める魂が、真に生きようとするならば、人生は正しく荊棘(けいきょく)の道である。
しかしそのなかでも、常に光を求め、模索をつづける。
人生は何かゆくてを照らす灯がなくては生きられない。
その灯が或いはおのれを焼き滅ぼす無明であったとしても。
過去の日本女性は完全に生きていなかった。影の部分に過ぎなかった。
今こそ光を求めて新しい時代に飛び立たねばならぬ。」


 ディレクター 藤村奈保子
 
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