Strange Circus 奇妙なサーカスおもしろかった。初見である。これまで何度かトライしたけれど、初めの方で挫折。冒頭のサーカス団ショーにおいて、窃視の前兆とフリークスの戯れが表される。江戸川乱歩的なものも寺山修司的なものもぜんぜんOK、むしろ好きなのに、ここでは嘔吐感が生まれる。本作品のプロセス、その出来事たち、クローネンバーグのクラッシュも、六月の蛇も団鬼六もぜんぜんOK、むしろ好きなのに、気持ち悪さがぬぐえない。やがて落ち着いてくる。恋の罪につながる路線のような作品だけれど、恋の罪が終盤、高揚感とともに示す自殺サークルのような意味不明性に比すれば、こちらは理路整然として分かりやすい形で終盤をむかえる。でもムカつく。ムカムカと嘔吐感がこみあげる。主人公の謎の解明とか、主人公の夢の戯言とか、想像の産物とか、それがどれかはどうでもいいだろう。しょうもないことを言ってしまうが、園子温が岩井俊二とで出ていたボクらの時代で、小学生のとき学校にすっぽんぽんで行ったというハナシ、本当か?眉唾ではないか、学校が自宅裏にあるのなら裸のまんま登校できるけれど、路上をそんな姿で歩いていればそんなストーリーキングすぐにとっつかまるだろう、と思ったが、その真偽は分からないけれど、もし事実でないのであっても、園は自身を伝説化するためにほざいたわけでも嘘言ってるわけでもなく、彼のなかでは本当に起こったことなのだろう、客観的にはその出来事は分からないのであっても、主観的真実においては事実なのだろうな、と思ったわけなんだけれど、本作においてもそうした心的リアルが襲ってくる。リリーシュシュが観ていて気持ち悪くなるのは、ハンドヘルドによる船酔い感覚だけなのではなく、あんな残酷な虐めを見たこともあったこともしたこともないけれど、日本というアトモスフィアで感じる心的リアルを感じたせいがあるのかもしれない。奇妙なサーカスの嘔吐感は同じ理由によるものなのだろうと、同じ酸っぱい匂いを感じるのである。
四月物語はココロ洗われる。サーカスを観たあとだったからよかった。サーカスを後に観たら変態志向のまま今日を過ごしていたかもしれない。ラストの大雨、あれは浄化作用である。NYにいたときはどうだったかな?引っ越し先の自室の両隣の部屋に、初めましてよろしくお願いします、と贈答品をもって挨拶に出掛けたかな、覚えていない。たぶんそれはしなかったかな、フリーズとなって撃たれると思ったからか、それとも出向いてノックしても相手が出てこなかったからか、どちらにしても誰かが玄関開けてくれた記憶はない。東京に住みだしたときか2つ目のアパート探していたときか、不動産屋が東京では隣に挨拶に行くヒトはいません、と言われた(けれど、持っていったけれど)。東京に出てきて住み始めた主人公が隣人や大学のメイトたちと距離感を縮めていくセンスが、この中編作品で表される。主人公の素朴感が包まれる。伏し目がちで彼女自身の性格を明るい方だと思いますと大学メイトに言うところとか岩井的リアル。あれは入学式に潜り込んで撮影したのかな、それともエキストラ?岩井的リアル。距離感がリアルである。素朴なたたずまいがそのまま主人公である彼女が東京に出てきた理由と憧れの先輩との距離にもたらせるファクターとなる。岩井テクストでは主人公を好きな男子は彼女に(好きの裏返し的な意味での)いじわるしちゃうけれど、女性の友だちや後輩は彼女の気持ちを理解して応援したり手助けしてくれる。こうしたこともそこはかとなくよく感じられる。そして、ラストの大雨、とてもこころ洗われるのであった。
言い忘れていたけれど、四月物語のラストに言われる〇〇の奇跡。あれよかったな。生きていた信長には嘘を真実に変える力があるというより、映画にはミラクルを生む力があるということ言っているのだろう。園子温は虚構とリアルがゴッチャになったのがこの世界、というよりこの世界はイマジネーションによって成り立っていると言いたいのかもしれないけど、岩井俊二はこの世界とまでは言わないにしても映画は奇跡を届けてくれる、とまるでスピルバーグのような感じ。メルヘンすぎるけれど、間違いではない。思えば、リリイ・シュシュのすべてにはそれがある。
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