新藤兼人はしがらみ社会における見えない欲望を表し、イマヘイは米国に従属してしまった戦後日本のなか日本人の本質はそもそもなにかをプリミティヴに探究し、若松孝二はアンガージュマン、というよりは政治に喧嘩を売り、権力に暴力で挑み、時代に生きる人間を描写、権力に抗い国家と闘うヒトを描いてきて、ぴあ文化をとりあえずジャンプして(その間に戦ってきてる作家さんはたくさんいる。森田も相米も大林もたぶんそうだろう)、岩井俊二において、見知らぬ我が子でもそうだったが、恐怖にのみこまれても抗えない個人(でもあらがいたたかっているヒト)が彼のテクストでは表されているのではないか、いっぽうで園子温は、新藤兼人今村昌平若松孝二の伝統の灯を消さないように(本人は映画の伝統とか意識はしてないだろうけれどDNA、というかミーム的にアートでそれ出ているのではないかな)、なにに抗っているかが分からないけれど、なにかに抗っている。この抗う対象、この対象なるものの曖昧で不透明さというものが岩井と園にはあるのだろうか。でもシャドウボクシングしているのではなく何かを見据えているのだろうな。
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