風花は、私の記憶が正しければ、最初に観たときとてもよく感じたと思うのであるが、その後何度か観たとき、非常に気分の悪さをもたらしたのであるが、たぶん、お酒を飲んだ後に観たからかな、でもそうした状態で観る作品も多く、他のではそうした気分になるのはそうも多くないので、なぜかな、と思うも、たぶん、時間の飛び方が脳をシェイクシェイクしたからかな、と結論する。この作品、ドゥルーズが言うところの時間イマージュで、ハリウッド・クラシックがやるフラッシュバックのようなエフェクト表すわけではないけれど、酔っ払って記憶が曖昧な浅野の、記憶がいきなりフラッシュバックするような感覚の過去への飛び方であり、キョンキョンにおいても思い出される瞬間のフラッシュバックのようであり、そこがおもしろいな、となる。浅野によって体現されるのはエイティーズの名残があるようなミーイズムであり、現代ストレス・シンドロ〜ムも持ち合わせているエリート。キョンキョンは現在も続く貧困女子のリプレゼーション、というわけではないだろうけれど、見逃してくれよ!と言っても不幸が転がるなか大不孝になっている艶姿ナミダ娘。バブルから抜け出すようなふたりは相米らしく、供儀が伴われる宿命的空間に入る。目的をなくしたふたりにとって、その空間、北海道は後にキョンキョンが言うような、道を迷うものとなる。酔っ払ったらかわいくなる浅野もしらふの嫌な奴の浅野もどちらもよかったが、キョンキョンの母性がなによりましてよい。宿命的空間は通過儀礼として表されているかどうか分からないが、主人公の新しい門出をもたらすものにその空間は導く。それは最終盤の森だけに当てはめられるものではなく北海道の旅、もしくはもっと前の、浅野が目が覚めるとキョンキョンが横にいる桜の花の下から始まっているのではないか。ふたりはそれぞれ相米らしく、しがらみと共存せざるえない状況で生きている。イエから解放されてもしがらみは現代シンドロームである。浅野は唐津に帰らないし、キョンキョンは故郷に5年も戻っていない。けれど、現代にしがみつかなければ生きていけない癖となっている。死に場所を見つけに雪山へ。森田芳光は秋元康を意識していただろうけれど、相米は森田のいろんな角度からボディやフックやアッパーをあみだす(ときには反則のキックまでやらかす)読み取り不可能なセンスを気になっていたのではないかな、で、ブームになった失楽園を観て、なにも死ぬことはないだろう、俺なら心中ものならこうする、と思ったかどうか分からないけど、なにかそれ思わせるような方向を感ずる。なんか今回は気持ち悪くなるではなく、よかった。ラストは解釈が2通り考えられるような終わり方だけれど、キョンキョンも浅野も、あなたに会えてよかった、ときっと思うのであろう。
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