毛皮のヴィーナスおもしろかった。92年のヴァ―ホーベンは氷の微笑、02年のデパルマはファムファタール、そして13年はこの作品で完結するトリロジー最終作、10年毎のサントーム/アブジェクシオン三部作にふさわしい最終作である。虚実ない交ぜにどっちがどっちか分からなくなるや空間的に出れないや魅惑され(或いはオブセスされ)なにかに支配されているかのようで実は支配する声は自身のもの、というのはテナントやローズマリー、反撥、そしてポランスキーのテクスト多くのものと同じストラクチャーを本作やはり表している。現実に出たい、けれど出れない演出家はファムファタールに魅惑される。現実はフィアンセとの電話の会話で、平凡で退屈a.k.aフツーということが我々にも伝えられる。演出家のテイストもマチューアマルリックの見事な、いびつな官能する表情でこちらに伝わる。エマニュエルセニエの視点ショットらしきオープニングは劇場に入る(そしてラストはそこから去ってゆく)。彼女はミューズかもしれないし破壊神かもしれないし、あるいは普通のヒトなのかもしれない。彼女は女優らしく、ヨイショしたり褒めちぎったり、相手を見下したり、演劇と現実のない交ぜと同じように、行き来する。ワンダはたぶん外にいるごくフツーの平凡且つ退屈な女性なのかもしれないけれど、演出家は彼の想像において彼女は違うものとする。おもしろいのは、ワンダがこの作品のテーマは「子どもの虐待?」と尋ねると、演出家は怒り出し、この時代はなんでも社会学と結びつける、と言うけれど、たぶん原作者のニューヨーカーは、女性を差別視する眼差しを社会学的にも抽出しているのではないかな、となるも、ポランスキーはそれに従いつつもそれだけには終わらせず、美学的な追究をする。たぶん、映像である利点としての舞台ではできないもの、本作に生んでいるのだろう。映像は甘美に在る。いろめく。そして、いきなり現実に引き戻され、また奈落の官能を引き合わさせる。演出家は分からないまま、闇に葬られる。サントーム/アブジェクシオンはけっきょくオトコ中心の社会が生みだしたものやもしれないこと、エンド・クレディットのフィメール・ミメーシスたちが語らしおん。
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