マイ・フェア・レディおもしろかった。久しぶり観るも、こんなに長い尺だったっけ。以前は気取って高慢で退屈にしか思えなかったアスコット競馬場のシークエンスも含め関心もって観れる。女性参政権運動の頃かとイギリスの歴史も少し知ったから、関心が動く。1956年にジュリーアンドリュースとレックスハリソンで大ヒットしたオリジナルのミュージカル舞台、どこかで聞いたけれど、歌ったことないレックスハリソンのためセリフのような歌い方、登り降るような歌い方、とあったから、まずはハリソンありきで企画が立ち上がったのだろう。映画版、たとえ歌をほとんど歌ってなくてもオードリー、花売り娘のときの表情の活き活きさ、レディになったときの光と影、やはりスクリーンならではの輝きを運び込んでくれる。ハリウッド創成期からのタイクーン、ジャックワーナーが社長時代のワーナーが製作ゆえ、なんだか黄金期のハリウッドの最後の大作かのような威厳もある。それまでで最大の製作費でやるってもんだから、ハリソンはもう若くないからケーリーグラント(彼はイギリス人なんだね、知らなかった。ついでにオードリーがイギリス人ってことも知らなかった。オランダ出身かと思っていた)がオファーされると、僕ならレックスハリソンでないと観ないね、と断りをいれ、オファーを受けたオードリーもこの作品にはジュリーアンドリュースしかないとスティディオに説得を試みるも、まだ映画での知名度がないジュリーに社運を託すことができないワーナーは、ならばリズテイラーに声をかけようとすること知ると、ならば私がイライザを、とオードリーはオファーを承諾したとの経緯があるらしい(オファーを受ける前から、次にやりたい作品は?との質問に、マイ・フェア・レディと答えていたらしい)。話的には、前半のコックニー訛りが愛らしい花売り娘のオードリー、でもって、ソフィスティケーションってのは多様性を認めないことか、と、やはりそうした時代なのか、となるも、後半は、舞踏会を成功して喜ぶのはヒギンズと大佐だけ(このシークエンスに、あのラストショットの伏線があったのかと発見。イライザはヒギンズにスリッパを渡そうとする。)、男尊女卑で、多様性を認めない大英帝国らしさが現れ出し、どこにも居場所がないイライザのアイデンティティーの喪失の危機が表され、ヒギンズの女性を認めるフリ、多様性を認めるフリの大英帝国ぶりは続き、そんなことなにより、ヒギンズの心の中のモヤモヤは、イライザが女性(或いは、レディ)であることを遂には彼の心に発見、そして彼に近づくイライザ、でフェイドアウト、というラストの感じかな。このポイントは何気に、男女同じであるという以前にとても大事だな、と感心する。歌曲はやはりどれも流石。
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