地獄に堕ちた勇者ども、おもしろかった。世紀末がとうの昔になってるときに、カタストロフィがやってくる。災難は忘れた頃にやってくるものだろう。新しい女であるチューリンは、退廃的耽美主義者のデカダンス・ダンディズム、オフィシャルに言えばデカダンを操る。デカダンは人工的なものを愛し、藝術を愛する。ベニスに死すでもデカダン体現したボガードにもそれはフィットし、ヴィスコンティの未亡人にやがてなることになるバーガー・キングにもふさわしいものである。チューリンが舞台袖で見つめる息子のディートリッヒ艶姿はアートであり、人工的であり、退廃を吹き出す。時代をコケにする。ボガードがやがて壊滅させていく鉄工場も、退廃芸術的にマグマを吐き出す。
プーチンとオリガルヒは持ちつ持たれつではなく完全に武装権力がいらないとしたものは粛清され利用可能は利用されるように、ナチスドイツは鉄鋼会社を我が物とし、いらない突撃隊も人々も粛清し、ブルジョワジーを芸術的頽廃を迎えること避けられないものとする。残るのはラストショットに表されるマグマと化したイデオロギー。ヒトは信念を持たない限りそれにかどわかされる。そして、信念を持っていても武力で玉砕される。
我々の背後に潜むもの、それはひとりの男の執念、それ以外のものはない。ヒトラーしかり、プーチンしかり。この作品ではバーガー・キングか。新しい男は本当の男ではないと歌っても、彼は理解していながら時代に巻き込まれ、権力を欲(よく)する。ボガードは権力を欲し、粛清の的となる。愛されることを欲しても新しい女は愛を与えず、デカダンはイノセンスを欲す。されど、なにに対してもラヴ&ヘイトレッドは顕れ続ける。デカダンは無欲でなければならない、山猫のランカスターのように。儚さをもたなければならない。そうでなければ、儚くこの世を全うすることになる。チューリンの死に化粧に彩られた眼はなにを見つめているのか、これからも儚くことなく続く世紀末をだろうか。
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