瀬戸内寂聴の伝記小説『美は乱調にあり』の続編『諧調は偽りなり』を読む。
上下2巻からなっていて、前者の2倍程にもなっている。
『美は・・』及び大杉栄と伊藤野枝については4月にレポートした。
・「『美は乱調にあり〜伊藤野枝と大杉栄』瀬戸内寂聴」(2022.4/7)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1982012884&owner_id=3341406
・「大杉栄と伊藤野枝の墓」(2022.4/8)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1982019506&owner_id=3341406
そこでも書いたが、『美は・・』は月刊「文藝春秋」の1965年4月〜12月号に連載、『諧調は‥』の方は同誌1981年1月〜1983年8月号に連載された。
16年も時間を置いての執筆となったのである。
前者は「日蔭茶屋事件」(1916.11/9)の直前迄、後者はそこから大杉・伊藤の虐殺、いわゆる「甘粕事件」(1923.9/16)とその後を書いている。
何故連続して書かなかったのか? 何故これ程時間が空いたのか?
寂聴は「甘粕のことが、どうしても納得できないことがあって、書けなかった」と、『諧調は‥』の下巻最後に加えられた、栗原康との対談『解説にかえて〜恋と革命の人生を』の中で言っている。
『諧調は‥』では、寂聴が描く対象者は『美は・・』に比べて大きく拡がっている。
大杉と野枝に直接的関係の薄い人達でも、当時の社会主義やアナーキスト等左翼思想に身を投じた人間について、寂聴は徹底した調査をしてペンを進めている。
太平洋戦争に向って傾斜していく当時の日本の世相の中で、革新思想の潮流や諸事件の動向全体を描きだし、その大きなうねりの中で、大杉と野枝という人間を炙りだそうと考えたのだろう。
『美は・・』に比し、『諧調は‥』単なる大杉と野枝の伝記に収まっていないという言い方もできるかもしれない。
それらが、『諧調は‥』のボリュームにつながっている。枝葉を絞りもっと濃縮してまとめるという方法もあった筈だとして、賛否はあるだろうが、私は寂聴の熱の籠った企図に拍手を送りたいと思う。
私はここで『美は・・』と『諧調は‥』の総合的評価をするつもりはない。
前掲の2つのレポートを書く時点で分かっていなかった事柄の中で、『諧調は‥』を読んで発見したいくつかの点について明らかにしておきたい。
まず1つ、1976年に大杉等の「死因鑑定書」が発見され大スクープになったが、これは、3人の虐殺事件解明にとって極めて大きなものだった。それを寂聴は見ていたかどうか? 『美は・・』を読み終えた段階では知る由もなかつたのだが、『諧調は‥』を書いている途中でそれは発見されており、彼女が十二分に吟味している事がはっきりした。
寂聴はこう書いている、
「そのうち、全く思いがけない物が発見された。
(中略)昭和五十一年八月二十六日、朝日新聞の紙上にその記事を見た時の驚愕を忘れることが出来ない。大杉死後実に五十三年ぶりに突然地の底から湧いたようにそれは私たちの前に差し出されていた」。
甘粕の軍法裁判は甚だ偏って不透明なもので、様々な問題が突き詰められる事のないまま、懲役15年の刑が確定した。その上、甘粕はたった2年10ヶ月服役しただけで出所する事になる。
甘粕は自分1人の判断で、自分の腕で扼殺したと裁判で主張、それが通ってしまったが、「死因鑑定書」で、3人が死の前にどれだけ激しい暴行を加えられていたかがはっきりした。
これで上述の刑も、その後の減刑もあり得ない。
また、出所後すぐ甘粕は結婚しており、2人でパリに大旅行、3年余の旅行費用は軍が全部支払った。そして帰国後半年で満州へ渡り、満州を思うままに操つる事となる。寂聴は本書でその辺り迄触れている。
大杉等3人の虐殺に軍上層部の指示があったであろう事は、容易に察知される。
次に、大杉・野枝と一緒に僅か6歳で殺された甥の橘宗一(たちばなむねかず)について。
ポイントとして、まず宗一とは一体誰か? 何故あの日大杉・野枝と一緒にいたのか? 何故殺されなければいけなかったのか?
宗一は1917年、貿易商の橘惣三郎(「宗三郎」との表記もあり)と大杉栄の末妹あやめの間にできた長男で、米国オレゴン州ポートランドで生まれた。そのため米国籍も持っていた。
1918年、あやめは自身の病気治療のため宗一を連れて帰国。
あやめは宗一を、横浜鶴見(寂聴は川崎と書いたりもしている)にいた兄 勇(栄の次々弟)の家に預け、自分は静岡の姉 柴田菊(栄の次々妹)の家で養生していた。
関東震災の半月後9/16、大杉と野枝は柏木の自宅から、鶴見の勇の家へ地震見舞いに出かけた。そして、宗一を引き取って自宅へ向かった。
大杉と野枝は日頃から「宗坊」と言って宗一を可愛がっていたので、宗一も誘われて喜んでついてきたのだった。
その帰り、大杉・野枝と一緒に宗一も憲兵隊に拘束された。
大杉の消息については、9/18、「報知新聞」がスクープしている、
「大杉栄夫妻初め百余名の検束〜憲兵隊の主義者検挙」という見出しで、以下文面。
「東京憲兵隊本部では、災害後引続き市郡における社会主義者の検挙につとめ、(中略)十六日夜半に至り、(中略)某所にありたる主義者の巨頭大杉栄夫妻並にその長女の三名を検束、自動車にて本部に連れ来り、麹町分隊に留置せり」。
新聞の認識通りなら、(少なくとも当初は)熱に浮かれていた憲兵隊が宗一を長女魔子と勘違いしていた可能性はある。
「夜半」と書かれているが、実際に拘束したのは午後6時頃であるから、夜陰のせいで男女の区別がつかなかった筈はない。
甘粕は聴取書でこう言っている、
「子供は淀橋警察署から自動車で麹町憲兵分隊に来る途中から私になつき、軍隊に来てからも附きまといますので、誰か引取って養育してやる者はいないかと冗談の様に分隊の者にいった位で、伊藤野枝を絞殺する前に私の許に来ましたから、隊長室の隣の部屋に入れて戸をしめ、一寸待ってくれといっておきましたので子供はそれをきくと隣室で騒いで居りましたから伊藤野枝を絞殺すると直ちに隣室に行き、手で咽喉をしめて倒し、細引を首に巻きつけておきました。子供は殺す時、声をたてませんでした」。
何と冷酷な態度だろう。
この聴取書を信ずるなら、甘粕は拘束後すぐ、大杉が連れていた子を男の子だと認知していた筈だ。
ただ、大杉の子でなく甥の子であるとどの時点で知ったかははっきりしない。
また、何故、なついたいたいけな子供迄殺害しなければならなかったのか、その理由も分からないが、推測するに、事件を隠し通そうとしての行為だったのではなかろうか。
最後は、宗一の遺骨が何処に埋葬されたのか? という点である。
前掲のレポートで、静岡市の沓谷霊園と、名古屋千種区の覚王山日泰寺とを挙げたが、実際のところは、墓を開いて科学的調査でもしない限り分かりようがない。
寂聴は「名古屋の宗一の墓は、墓というより記念碑のような感じ」と印象を述べている。
下はネット上で拾った日泰寺の宗一の墓碑、その表面と裏面。
撮影時期が異なるので、墓周囲の環境が違っているようだ。
表面は文字が見えにくいのだが、こう彫られている。
上半分にアルファベットで、
「Mr.M.Tachibana
Born in Portland Oro.
12th 4.1917.U.S.A」。
「Oro」はオレゴン州の略か。
下半分には縦書きで、
「吾人は 須らく愛に生べし 愛は神なればなり
橘宗一」と。
橘惣三郎はアメリカ暮らしも長く、キリスト教信者となっていたのだろう。
裏面には、最上段に縦書きで、
「宗一(八歳)ハ
再渡日中 東
京大震災ノ
サイ 大正十二年
(一九二三)九月十六
日ノ夜 大杉栄
野枝ト共ニ 犬
共ニ虐殺サル」。
改行がずれて分かりにくくなっている。
「八歳」は数え、満では六歳。
官憲を「犬共」と、激しい言葉をぶつけている。
その下中段には再びアルファベットで、
「Build at 12th 4.1927.
By S. Tachibana」。
この墓碑を立てたデートだろう。
宗一が殺されて4年後である。
下段には縦書きで、短歌を彫り込んでいる。
「那でし子を(なでしこを)
択半の嵐に(よわのあらしに)
た折られて(たおられて)
あやめもわか奴(あやめもわかぬ)
毛のとなり希里(ものとなりけり)
橘惣三郎」
「あやめ」は宗一の母の名を掛けている。
父親の情念がいっぱいに詰まっており、確かに、寂聴が言う通り「記念碑」のように思えるのだがどうだろうか。
静岡市沓谷霊園の墓の写真は、冒頭のリンクからご覧頂けたらありがたい。
こちらは実際に訪れてカメラに収めた。
『諧調は偽りなり』(上・下)
執筆 瀬戸内寂聴
発行 2017年2月、岩波現代文庫
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