(続き)
『美は乱調にあり』については、昨日の日記で書きたい事は書いた。
が、本からは離れてもうちょっと書き残しておきたい事がある。
先日用事があって、静岡市に帰った。
実家には寄れなかったのだが、偶然近く迄行ったので、思い立って墓参りをした。
静岡市公営の沓谷(くつのや)霊園に我が家代々の墓がある。
前回いつ来たか忘れたくらい久し振りである。
花屋も近くになかったので活ける事もできず、回りの雑草を抜きゴミを拾う等し、水をかけた。
とは言っても、実家の姉がよく来てくれているとみえて殆どきれいになっている。
目を瞑って手を合わせているうちに思い出した事がある。
近くに大杉栄の墓があった筈だ。
『美は乱調にあり』を読んでいる最中でもあったので、探してみる気になった。
随分以前の法事の際だと思うが、霊園の中を連れ立って歩いている時に、叔父が指をさして「こんなところにアナキストの大杉栄の墓があるよ」と言っていたのを思い出したのだ。
確かな場所は記憶になかったが、うる覚えに従って歩き回ってみた。
坂道の小さな通路をあちこち歩き、小さな角をいくつか折れると、「あった!」。
確かに大杉栄の名が墓石に彫ってある。
下がその写真。
叔父も言っていたが、私も繰り返した「何故ここにあるんだろう?」。
大杉は愛媛県那珂郡丸山で生まれた。現在は香川県丸亀市。
大杉の父は愛知県海東群越治郡、現在の愛知県津島市の出身。静岡市とは関係が見当たらない。
後日調べて、いろいろな事がようやく分かってきた。
上から大杉栄、伊藤野枝、甥の橘宗一のポートレート。
3人の遺体は損傷と腐敗が激しく(*1)、死後9日経った1923年9/27に落合火葬場で荼毘に付された。遺骨は一旦野枝の郷里福岡県糸島郡今宿に送られた。
今宿にはその山中に名も彫られていない自然石があり、郷土史研究家はそれが野枝の墓だと言っている。
(*1)1976年になって3人の「死因鑑定書」の存在が分かり、マスコミがスクープした。
その内容はあまりに残酷なもので、ここで詳細を書く事ができない。
激しい暴行を受けたのち扼殺され、3死体共菰包みの上麻縄で縛られて憲兵隊本部構内の井戸に投げ込まれていた。
その後、事件から3ヶ月の12/16、労組やアナキスト団体の主催で、東京谷中斎場で合同葬が行われる運びとなった。参列者700人の大規模なものだった。
が、その前夜、通夜会場に右翼団体のメンバーが乗り込み、遺骨を持ち去る事件が起きた。
9日後の12/25に遺骨は警察に届けられ、翌1924年5/25になってようやく遺族に渡される事となった。
その時、栄の妹きく(菊との表記もあり)が静岡市鷹匠2丁目に住んでいた。遺骨は彼女の許へ送られた。
きくによると、栄の長兄と東京の労働運動社が墓を作るための金を送ってくれた。
公にはできないため、5/25の夜、きくの家で秘密裏に葬儀を行い、左官屋,石屋の協力で墓石も立てた。これが沓谷霊園である。
さて、大杉と野枝が一緒に葬られるのは自然だが、甥の橘宗一も同じ墓に葬るのは、一般的に考えてヘンではなかろうか?
甥とは言うが、どだい、橘宗一とは一体誰だろう?何故あの日、大杉と野枝と一緒にいたのだろう?
橘宗一(たちばなむねかず)は1917年、貿易商の橘惣三郎と大杉栄の末妹あやめの長男として、滞在先の米オレゴン州ポートランドで生れた。
1923年、家族はアメリカから日本に帰国。
宗一は栄の弟の勇の家(横浜の鶴見)に預けられたようだ。
震災後の9/16、栄と野枝は勇を見舞い、宗一を連れて帰宅する途中憲兵隊に連行され、行方が分からなくなった。
甘粕及び憲兵隊は、宗一を大杉と野枝の子と思い込んで一緒に殺害したのだろうか。
野枝の子は7人いるが、彼等は生き延びている。辻潤との間に生れた子2人(*2)、大杉栄との間に生れた子5人(*3)である。
(*2)一(まこと/1913-75),流二(1915-98)。
(*3)魔子(のち眞子と改名/1917-68),エマ(のち幸子/1919-2003),エマ(のち笑子/1921-2013),ルイズ(のち留意子/1922-96),ネストル(のち栄/1923-24)。
末子ネストルは両親が殺された日から約1年後の1924年8/15に病没している。
大杉や野枝の関係者が訴えても、警察は相手にしなかったが、宗一はアメリカ国籍を持っていたため、米国大使館が外務省に抗議した。
これによって甘粕事件は明るみに出る事となったのである。
宗一の父 惣三郎は、現在の愛知県あま市大治町の出身。震災時に彼が何処にいたかは分かっていない。
惣三郎は1927(昭和2)年4/12になって名古屋市千種区の覚王山日泰寺に息子の墓碑を立てた。(但し遺骨がそこにあるか沓谷霊園か、はっきりとはしない。)
墓碑の裏には「大杉栄、野枝ト共ニ、犬共ニ虐殺さる」と彫られている。「犬共」とは恐らく官憲等を指しているだろう。墓が分かりにくい所になければ、惣三郎も検挙されたに違いない。
この墓碑は、1972年になって、近所の女性が発見したと伝えられる。
その後、1975年9/16、日泰寺に縁者が集まり初めて墓前祭が行われた。
翌1976年以降、9/15には名古屋日泰寺で宗一の、翌9/16には静岡沓谷霊園で大杉と野枝の墓前祭が開かれるスタイルとなった。
2003年9/16には沓谷霊園で80回忌の墓前祭が行われた。関係者200人余が集まったと言われているが、遺族の高齢化もあり、これを最後の墓前祭とする事が決まった。
沓谷霊園の墓の手前には1976年に立てられた墓誌がある。
彫られた文字を拾うと、表面にこうある。
「大杉栄は明治18年軍人の家に生まる。
陸軍幼年学校を放たれ、外国語学校仏語課に学び、日露戦争に際し非戦論に共鳴して社会主義者となる。資性剛毅歳華煥発。
無政府主義の一派を拓いて政府の弾圧に屈せず、幾度か牢獄の苦を忍び迫害の鉄火を践めり。
大正11年日本脱出。仏蘭西革命故国送還の波瀾を経、関東大震災に遭遇して妻の伊藤野枝、甥橘宗一と共に軍憲のために虐殺された。
惜しむべし雄志逸材むなしく中道に潰ゆ。
荒畑寒村撰」
裏面には、以下の通り。
「1923(大正12年)9月16日虐殺された
大杉栄 1885年1月17日生、享年38歳
妻野枝 1895年1月21日生、享年28歳
甥橘宗一 1917年4月12日生、享年6歳
この遺骨を翌年5月25日この地に収む。
1976年9月16日 大杉栄らの墓誌建立委員会」
荒畑寒村(1887-1981)は大杉栄と伴に、社会主義実現のために働いた人物である。
1922年に日本共産党の設立に参画したが、のち離れた。
(終わり)
〈参考資料〉
・『断髪のモダンガール〜42人の大正快女伝』
執筆 森まゆみ
発行 2010年12月、文春文庫
・Web『松岡正剛の千夜千冊〜736夜「大杉栄自叙伝」』
発行 2003年3/19
・NHK-BS「悪女伝説」『伊藤野枝 恋と革命とスキャンダル』
演出 嶋田武史 ディレクター 岡肇伸
出演 瀬戸内寂聴
放送 2019年5/11
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