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2022年04月07日13:28

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『美は乱調にあり〜伊藤野枝と大杉栄』瀬戸内寂聴

瀬戸内寂聴(1922-2021)が書いた伝記小説『美は乱調にあり』を読んだ。

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月刊「文藝春秋」の1965年4月号から12月号に連載されたもの。寂聴42歳から44歳。彼女が出家したのは1973年だから、正確に言えばこれを書いた時はまだ瀬戸内晴美であるが。

私が読んだのは2017年1月発行の岩波現代文庫で、これにはタイトルのあとに「伊藤野枝と大杉栄」と副題が連れられている。
『美は乱調にあり』では何の事か分からないが、この副題で、少なくとも誰について書かれたものか分かる。
大杉栄と伊藤野枝は、1923(大正12)年の関東大震災直後の混乱の中で、憲兵隊大尉だった甘粕正彦によって拘束、虐殺された。「甘粕事件」という呼称でご存知の方もおられるだろう。
享年38歳、28歳。甘粕等は同行していた甥の橘宗一(たちばなむねかず)迄殺してしまった。僅か6歳だった。
ただ副題は「伊藤野枝と大杉栄」という順になっており、寂聴が特に主人公としたかったのは野枝の方である。

これには『諧調は偽りなり』という続編がある。16年も経った1981年1月号から1983年8月号に連載された。この時寂聴は58歳から61歳となっている。
主人公の2人は変わらない。
『美は乱調にあり』は伊藤野枝の生い立ちから1916(大正5)年11/9のいわゆる「日蔭茶屋事件」の直前迄を書いている。
この事件で大杉栄は愛人の神近市子に首を切りつけられ、ケガを負った。
『諧調は偽りなり』はその後、2人が甘粕大尉によって虐殺される迄を書いた。

2つのタイトルは、大杉栄の文章から寂聴は取っている。
評論『生の拡充』(1913)に大杉は書いている、
「生の拡充の中に生の至上の美を見る僕は、この反逆とこの破壊との中にのみ、今日の生の至上の美を見る。征服の事実がその頂上に達した今日においては、諧調はもはや美ではない。美はただ乱調にある。諧調は偽りである。真はただ乱調にある」。
アナキスト(無政府主義者)である大杉は、日本に革命的な変化をもたらそうとしていた。時代の大きな変革を求めていた彼が、安穏で整然としたものに飽き足らないのは当然ではある。

伊藤野枝は、九州を出て上野高等女学校に編入学、そこへ辻潤(1884-1944)が英語教師として赴任してきた。
卒業後の1912(大正元)年、17歳の野枝は辻と同棲する。
辻はこの問題で辞職し、そののち定職に就く事がなかった。
1916(大正5)年になると、野枝は、辻とその間にできた子供2人を捨て、大杉栄との愛に奔る事になる。野枝21歳、大杉31歳。(こののち野枝と大杉の間には5人の子供が生まれる事になる。)
大杉の方には内縁の妻 堀保子(1883-1924)と、愛人 神近市子(1888-1981)がいた。
大杉は自由恋愛思想の持ち主で、野枝を加えて泥沼の四角関係が始まった。
ただ大杉は泥沼と思っていない、結婚という制度を人間関係の到達点と考えず、自由恋愛を標榜し、女達にも求めた。

大杉のフリーラブの原則は、以下の通り。

1)お互いに経済上独立する事。
2)同棲しないで別居の生活を送る事。
3)お互いの自由(性愛含め)を尊重する事。

これを4人が守れば四角関係も成立すると主張した。新しい男女関係と見るか、それとも男の身勝手と見るか。
「新しい女」を自認する伊藤野枝は、愛の勝利者との自信があったが、内心では嫉妬や嫌悪感に苛まれていた。

「新しい女」という言葉は、平塚らいてう(1886-1971)が発行した女性による女性のための雑誌「青踏」(1911-16)で訴え、話題になったもの。
当時、女性には参政権もなく、家父長制の下で良妻賢母という保守的側面だけが求められていたが、らいてうはそれを打破しようとした。
「青踏」発刊の1911(明治44)年はイプセンの『人形の家』が日本で初演された年で、女性の覚醒と権利拡張が叫ばれるようになったが、一部知識層に限定されていた。

四角関係の一端、神近市子は東京日日新聞の記者で、安定的な収入もあり、経済的に自立しない大杉を支えているという自負があった。大杉の態度はフリーラブの1)項に反する上に、提供した金は大杉と野枝の享楽生活に消費されていくという思いがあり、次第に大杉に恨みを抱くようになる。
遂に、神奈川県葉山の日蔭茶屋で神近は大杉を殺傷するに至り、殺人未遂で逮捕され2年服役する。「日蔭茶屋事件」である。
(神近は第2次大戦後、政界に出て、婦人問題に尽力する事になる。)

駆け足で骨組みだけ書いたが、寂聴はこれら入り組んだ様相を綿々と綴っている、殊に性愛の世界については文章の冴えに凄みがある。(*)

少し時間を遡って、平塚らいてうと伊藤野枝の関係についても触れておかなければならない。らいてうは本書の準主役である。
「青踏」創刊号で彼女は『元始、女性は太陽であった』と謳い、注目を浴びた。多くの女性から憧れの眼差しを浴びた。
それでも1,000部売れたのは予想外だった。らいてうは歓んだが、利益は殆どない。らいてうの母の資金援助あってこそだった。
同誌の賛助員には長谷川時雨,与謝野晶子等がいた。
「青踏社」社員には尾竹紅吉(本名一枝)、のちには件の神近市子も加わった。

野枝は辻との同棲を始めた1912(大正元)年、らいてうに手紙を書いた。らいてうは若いのに進歩的でしっかりした考えを持っていると驚き、彼女を社員にした。
出版の手伝いの傍ら詩や散文を書き、翌1913(大正2)年1月号には評論『新しき女の道』を、1914(大正3)年にはエマ・ゴールドマン,エレン・ケイ共著『婦人解放の悲劇』の邦訳を発表した。翻訳は辻潤の助けが大きかったようだが。
彼女は足尾銅山鉱毒事件にも関心を持った。

尾竹紅吉とらいてうは一時期同性愛関係にあった。
若く奔放な尾竹は、(ここではその内容に触れないが)「五色の酒事件」や「吉原遊郭登楼事件」を誌上に綴り、世間の批判を浴びる。「新しい女」=「ふだらな女」と、「青踏」も批判を受ける。
尾竹は退社を余儀なくされた。
「青踏」の政治姿勢は社会主義的であるとして幾度も発禁処分を受ける事となる。「青踏」経営は困難になっていく。

そういう中で、1912(大正元)年夏、らいてうは5歳年下で画家志望の奥村博史(1889-1964)と出会い、1914(大正3)年には入籍しないまま結婚生活に入る。
同年「青踏」2月号では、『独立するに就いて両親に』という宣言文を掲載する。両親に対して新しい結婚の姿を理解をしてもらおうというだけでなく、社会に対する訴えでもあった。
「新しい女」らいてうと、病弱で絵も売れない奥村とのバランスの悪い微妙な生活についても、寂聴は多くのページを割いている。
らいてうは奥村からの私信を「青踏」に載せた。奥村は「一羽のツバメが飛んできて平和を乱してしまった」と書いていて、これは流行語となった。以降、年上の女性に養われる若い男性を「若いツバメ」と呼ぶようになった由。

らいてうは、奥村との家庭生活と「青踏」の経営・編集の両立が難しくなる。
その様子を見ていた野枝は、同年11月、らいてうに「青踏」を任せてもらいたいと申し出た。同棲している辻潤が職に就こうとしないため必要に駆られてという側面もあった。
野枝はらいてうの了解を得る。1915(大正4)年1月、野枝は弱冠20歳で「青踏」編集者兼発行人となった。
「青踏」は、貞操問題、妊娠中絶問題、売娼制度問題等、文芸誌から次第に女性論争誌的性格を帯びていく事になる。
相変わらず発禁処分を繰り返し、1916(大正6)年2月迄、52冊発行して「青踏」は終わる。
繰り返しになるが、野枝が辻潤の子供2人の育児に悩みながら大杉栄との恋愛関係に陥るのは、まさにこの1916年の2月。同棲開始は同年9月、「日蔭茶屋事件」が11月である。
ついでに書き添えると、こののち野枝は大杉の子を5人出産する事になる。

(*)寂聴の特に性愛にまつわる表現の素晴らしい1例をピックアップしておく。
野枝と辻潤の同棲が始まった直後の事である。

「辻は自分でも呆れるほど野枝のこりこりひきしまった、奥へたどるほど火のような熱さをたたえた、みずみずしい肉体に溺れこんでいった。
数え年十八の野枝の若さは疲れというものを知らなかった。浅黒い皮膚はしめり気を帯びた肉の厚い異国の花びらのように、男の肌に吸い付くと容易にははがれなかった。
みずみずしさは深山の泉のように、汲めば汲むほどふきあげる豊かさで、掬うたび、限りもなくあふれ、あふれた。」

この書には寂聴の飽くなき人間への興味が満ちており、登場人物の複雑な相姦関係に従って、次々こうした粘着的表現が現れる事になる。


(続く)
 
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