アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダルおもしろかった。トーニャとはどういった人物ぐらいの感覚で、作品への期待とかは別にして観ていたからか、ラストの方はなにかグッとくるものがある。構造分析しながら観るのがクセとなりあまり感動とかいうものが別次元にいつもなってしまっていたけど、これはなにか映画的感動を久しぶりに受けたような感覚。コーエンズのファーゴにも表されるような、マヌケが自身を過信してどんどん悪い方向へと転がっていく悲喜劇的なことやはりあるのだな。トーニャの夫が、あの事件はトーニャ自身がナンシーケリガンを殴打したと思ってる人がたくさんいると言っていたけれど、私も彼女が現場にいたと間違った記憶を持っていた。トーニャと彼女のボディーガードが行なったという記憶である。真相はこうだったのか。むしろ被害者である、とまでは言えないけれど、事件に巻き込まれてしまっている。そうした悲劇性があるからグッとなったというわけではないのだが。理由はよく分からないが、グッとなったのはたぶんこういうことだろう。
ヨーロッパ映画などどのように展開していくか分からないものがあるなか、アメリカ映画は大体が型があるけれど、スパイクリーやソダーバーグやリンクレイターがその型の中でどう作品を仕立てるのかを考えていたとき、そもそもアメリカ映画とはなんだろうということを考えていたのだけれど、ボーイミーツガールやインディペンデンスなど表されるもの多々あるけれど、”愛と自由”がそのベースにあるものなのだろうな、と考えたわけだけれど、それはあの国が、ある種のプロパガンダ的なものか、そのイデオロギーを国民に浸透させるものであると同時に、長年のミーム化によりそれが普遍のものとなって^国民が観ながらスッと身体化的に吸収できるものであろうと考えると、断罪においても、いくら犯罪とはいえボニー&クライドの映画において”愛と自由”を押し殺そうとするものにアメリカンは黙っちゃいられないという風に、ベースはこれなのかと思ったけれど(ロシア映画は現在からは”忠誠と英雄”が国民の脳味噌に浸透されていくのかな)、アイ,トーニャはあーした現在があっても(そしてプロセスに表されるものにおいても)、ドライながらも”愛と自由”が表されているな、と、そこにグッとなるのであった。
ログインしてコメントを確認・投稿する