それでも恋するバルセロナおもしろかった。ヴィッキーに聴こえてくるスパニッシュギターの甘くとろけるような調べ、でもフィアンセからの電話でその調べはピタッと止まる。笑える。さて、作家は(アレンが信奉するベルイマンでは神の声だがアレンでは)愛の呼びかけを切実に待ち続ける。現実世界に自分の思い通りの物語を描こうとする作家であるが、その物語に様々な不合理が闖入してきて思い通りのものが描けない。だけれど、その偶然の産物たちが主人公に愛を運んできてくれる。作家のエゴイズムは消え去る。日常生活でそうした不合理も導く想像も時には大事なのである。というのがアレンではいつも表されていると私は定義しているのだけれど、今作品での不合理な世界は主人公たちヴィッキーとクリスティーナが訪れるバルセロナである。合理的NYから離れた異国でのバカンスで、ふたりは愛と出会う。ペネロペクルスが登場したあたりからハビエルバルデムの作家の愛の喪失観がクロースアップされてくるけれど、彼らふたりが愛とは成就しないもの、だからこそ愛と言うとき、クリスティーナの不在の現前を追うということ、そう、想像も芽生えてくる。ヴィッキーも本当の愛を得ようとするとき偶然というハプニング、銃弾による怪我で、フィアンセの本当の愛を知る。いつも想像は危険だけれど、ときには想像はヒトにはいつも大事なことなのである。NYに戻ったヴィッキーとクリスティーナはこれからも、その危険な想像を繰り返していくことだろう。この世界が不合理なように、人生は素敵な危険でみちている。
ミートゥー運動で最近はそうでもなくなってきているのかもしれないが、アレンの作品に多くの俳優が出たがるのは例えば、ハビエルバルデムがずっとハンサムな女たらしを一貫するのではなく、時にはストレスで頭が痛くなりマッサージしてもらう人間性を出せれるからなのかな、となる。ミッションインポッシブルでトムクルーズが分析能力に優れアクションを披露しながら、頭痛持ちになって女性からマッサージをしてもらうことは考えられない。スカーレットヨハンソンもずっとクールなブラックウィドウを一貫させる必要はなく、時にはアホな考えを披露することもできる。つまり、人間味をいろいろ、ひとりのキャラを通して表現発揮できるのである。となる。
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