1/23(日)、浜松市文化財課が行った「摩訶耶寺の文化財」と題した現地見学会に行ってきた。
大分前の市の広報に案内があり申込みをしたのだが、参加者は抽選で決定との事だった。
外れるだろうと思いすっかり忘れていたのだが、「午後の部に当選されたことをお知らせします」とメールが来た。
浜松市北区三ヶ日町にある摩訶耶寺(まかやじ)は大変に由緒ある寺で、過去にも何度か行った事があるし、美術館で扱われた事もある。
・2021年正月には初詣にでかけた。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1978287556&owner_id=3341406
特徴のある門や本堂、境内の石仏等の写真を掲示。
・浜松市美術館で2021年3〜4月に行われた「みほとけのキセキ〜遠州・三河の寺宝展」。
その1)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1978885972&owner_id=3341406
その2)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1978889768&owner_id=3341406
その3)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1978898541&owner_id=3341406
同展のメインの1つが摩訶耶寺の美しい千手観音菩薩立像(国指定重要文化財)だった。レポートのその2)に同像の写真や新聞記事を貼っている。
現地に行ってみると、午後の部の参加者は市民約30人で、午前の部にも同数程を集めたのだろうと想像した。
今回の見学のメインは修復整備が終わった摩訶耶寺の庭園である。静岡県西部〜愛知県東部の人々には名園としてよく知られ、愛されている。
学術的には、江ヶ崎龍三(日本庭園研究会事務局長)によると「全国的にみても上位十傑に入るべき実に優れた」ものである由。何故なら、静岡県に存在する歴史的庭園は僅か21であるが、その全てが江戸時代初期以降の作で、本庭園の価値は極めて大きい。何故このような庭園が浜名湖北の田舎に造られたのだろうか?
本見学会の講師は、大井豊、日本庭園研究会理事で実際に修復作業を行ったメンバーの1人だそうだ。豊川市在住。
左端、説明中の大井豊。その背景に見えるのが三尊石を含む庭園の北側主景観。更にその向こうに摩訶耶寺本堂の屋根が見える。
以下、庭園の南側景観。中央に鶴島が浮かぶ。
江戸時代、生垣の手前に参道を設けたせいで池の南側は削られた。古くは、池はもっと広かったようだ。
*庭園平面図はリンクより【1】参。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981466761&owner_id=3341406
以下、大井豊の解説とレジメに従ってレポートする。
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◆庭園の発見とその後
この庭園を学術的な意味で発見したのは、1968(昭和43)年、庭園研究会会長の吉河功である。
当時、雑草で酷く覆われ、池も泥土で埋没し稲田になっていたのを、吉河指導の下、庭研会員有志によって修復整備が行われた。
翌1969年には同会長その他が執筆した『摩訶耶寺庭園学術調査報告書』が庭研から出版された。
それから約50年を経て、池の漏水、石組みの弛み、池底のヘドロ堆積、睡蓮の過剰増殖等の問題が現れ、昨2021年より再度修復工事を行う事となった。やはり吉河の指導と浜松・東三河の庭研会員有志で作業は行われた。
この経験を踏まえて、庭研第421号(2021年秋号)は「摩訶耶寺庭園修復特集号」となっている。
見学会参加者には「摩訶耶寺庭園の造形美と歴史」なるペーパーを配布してくれたが、それは同号からのコピーで、今回の講師大井豊の執筆による部分だった。
◆庭園は鎌倉時代の古式枯山水様式
平安時代に書かれた『作庭記』は日本最古の庭園造りの書で、まとまった書物としては世界最古のもの。著者は橘俊綱(1028-94)との説がある。
これに基づく研究により、摩訶耶寺庭園は鎌倉時代に造られたと吉河は発表した。
本庭園の土盛りと石組みされた群石は、京都西芳寺(苔寺)の枯山水庭と同じ「古式枯山水(前期枯山水)」と考えるべきで、室町時代に現れた白砂敷を水に見立てた枯山水庭とは異なる。有名な龍安寺の石庭は室町時代末期1500年頃の作と考えられている。
『作庭記』には、水のない場所に石を立てるのを「枯山水」と呼ぶとあり、同じ庭の中に水を溜めた池があってもそう呼ぶとの事で、枯山水様式も時代によって変化した事が分かる。
ただ、1969年の発表時には史料に不明な点もあり、研究者によって、本庭園を平安時代から鎌倉・室町時代、また江戸時代の作庭と考える人もいたようだ。
大井豊はそれに対し、摩訶耶寺関係諸史の解明を進め、鎌倉時代作庭説を支持している。
この展開がなかなか面白く、日記のヘンなタイトル「摩訶耶寺庭園は摩訶耶寺の庭園か?」も、それから私が勝手にイメージしたものである。(笑)
◆摩訶耶寺の転変史
摩訶耶寺の前身は「新達(しんだ)寺/新羅堂」と言われ、奈良時代726年、愛知県境近くの富幕山(とんまくやま)の深くに開創された。
平安時代初期820年、兵火によって新達寺は焼失、南の只木(ただき)地区 千燈ヶ峯(せんとうがみね)に逃れて取り敢えず草堂を建て、「眞萱寺(まかやじ)」と名を替えた。
真萱寺が建てられたのは千燈ヶ峯の東 三ヶ日町宇志(うし)地区の斜面である。
(千燈ヶ峯は、現在「千頭峯」という字を当てられていて、その頂上付近には南北朝時代の千頭峯城跡がある。冒頭最初のリンク文は、この山に登り城跡を見学した事にも触れている。城跡の写真も掲示しているので、ご覧頂けたらイメージが増すかと思う。)
その後、平安時代末期の1156年、真萱寺は大風(台風?)で破壊され、西ノ山ツヅキ(上に掲げた「只木」という地名と関係があるか?また浜名湖畔に「都築」という地区もある。「都築」は「津々木」とも書いた。)に移動、現在の摩訶耶寺となった、と同寺縁起書は伝えてきた。
しかし、この経緯には後半に大きな省略がある事が分かった。
室町時代末期(戦国時代)1573(天正元)年、武田信玄は遠州攻撃において西ノ山ツヅキの本寺に火を放った。
1632(寛永9)年には、焼失した諸堂の代わりとして、ツヅキの山裾に本堂(観音堂)が建てられた。
この移築された観音堂の棟札が発見され、それによると、堂は滝流(江戸時代迄は境内を流れていた)より南にあったのをここに移した旨書かれていて、信玄が焼いた西ノ山ツヅキの寺は、現境内の南方250mの山中にあった事が分かった。
現在地の本堂は、更に後年、江戸時代1789(寛政元)年、豊川在住の岡田五左衛門尉富次によって再建された事が、現本堂の棟札その他から改めて確認された。この時に山門も西方から移動、参道も改修された。
先に述べた通り、この時の工事のせいで、庭園の南側は削られたのである。
これら史料とは別に発見された「摩訶耶寺村朱印領絵図」(江戸時代初期1679年作成)を見ると、今の庭園のある所に石組みが書き込まれているが、建物は一切書かれていない。
この事は、1679年当時、摩訶耶寺は現境内の南方250mの場所にあったという事と合致している。
つまり、この庭園と摩訶耶寺は、その出自において、本来別物だったのである。
◆庭園の由来
では、この見事な庭園が造られた由来はどう考えればよいか?
庭園は大変な資金を必要とするし、京都の庭文化をこの地に移動するには人的コネクションも必要である。簡単には造営できるものではない。
三ケ日地域は、平安時代中期から伊勢神宮神領(荘園)が広大で、その神領は「濱名神戸(はまなかんべ)」と呼ばれていた。
濱名神戸を現地で管理していたのは濱名縣主(あがたぬし)で、その子孫は、後年濱名郡司となり、縣氏となった。
濱名神戸は「中之郷」「岡本郷」「津々木郷」で構成されており、その中心である中之郷(ここに摩訶耶寺もある)は上古来縣主の本拠地だった。縣氏は地域の中心神社である濱名惣社神明宮を祀る役も担っていた。
*濱名神戸推定地図はリンクより【2】参。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981466761&owner_id=3341406
「大中臣(おおなかとみ)」氏は中央政権の名門貴族で、伊勢神宮の祭主でもあった。
縣氏は、大中臣氏に濱名神戸の司を委ね、自分はその下司となった。
鎌倉時代初期の縣氏4代(正家,正乗,正俊,時定)は、大中臣畠山朝臣縣を名乗っており、両家が婚姻等でつながっていた可能性もある。
内、正乗には二度上洛したとの記録もあり、大中臣氏を通じて京文化に触れ、人脈もあった事だろう。
摩訶耶寺本堂の裏の丘陵は現在ミカン畑となっているが、鎌倉時代様式の複郭式方形居館があった事が、諸史料や現地調査から確認された。
後年の研究書によると、北屋敷が70×50m、南屋敷が50×40mの土居と掘割を有していた事が知られ、鎌倉時代としては規模の大きな居館であった。
見晴らしも良く、東西主要道を見張る事のできる立地で、住人はこの地に移住した大中臣氏、もしくは縣氏一族の誰かであったろう。
鎌倉時代、彼が京都から作庭技術者を呼び、居館の直下に大規模な庭を作らせた可能性は高い。
*摩訶耶寺裏山 居館跡 見取図はリンクより【3】参。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981466761&owner_id=3341406
だが、室町時代初期になると、南北朝の戦いで南朝方についたこの辺りは北朝軍によって打ち倒され、1339年の千頭峯城落城と同時にこの居館も落ちたと見られる。
南朝方の公家等は、東方の井伊氏を頼って逃げようとする中、北朝兵に殺害された。
千頭峯城跡の東、只木山中には7基の古びて小さくなつた宝篋印塔があり、地元には「公家塚」と伝えられている。
この動乱後、本庭園も荒れ果て、草木や地中に吞み込まれていったと推測される。
摩訶耶寺本堂が、荒れ果てて草木に隠れた庭園の東側に造られたのは、既に触れたが、遥か後年、1789(寛政元)年である。摩訶耶寺は、恐らく庭園の存在を認知していなかったのではないか。
◆座視鑑賞様式と回遊鑑賞様式
最後に付け加えるが、この庭園は「座視鑑賞様式」が採られていて、池越しに三尊石を眺められる西側の1点に最善の鑑賞場所が置かれている。
そこには客殿が設置されていた事が、石垣の跡から分かっている。丘の上の居館の賓客は、この客殿の一画に座って庭園を愛でた事だろう。
対して「回遊鑑賞様式」は、園内を歩き回って眺めるスタイルで、寺院等の大庭園に向いている。
座視鑑賞様式は、それよりは小さめの個人邸宅に付随する庭園に向く。
この点からも、本庭園が、摩訶耶寺に属する庭として造られたのでなく、個人邸宅のそれとして造られたのが推測できる。
その個人とは、前述の関係史料からも分かるように、大中臣氏か縣氏である可能性が最も強そうだ。
現在摩訶耶寺庭園として愛されている庭は、元々摩訶耶寺のために造られたものではなかったのである。
・・・
最後に本堂内で、市文化財課の方の説明を聴いていると、隣に立っている女性が私の方を見て「□橋さん?」と声をかけてきた。
マスクをしていると、顔がよく分からない。
「文芸大の”ミレーの会”の〇村です」と仰るので偶然に驚いた。
私も静岡文化芸術大学の社会人聴講生の美術愛好者でつくるグループのメンバーである。
新型コロナのせいで社会人聴講もこの2年間行われていないので、実に久し振りである。
彼女もこういう機会を逃がさずに申し込みをしたのだと納得。
互いに、また聴講が始まるといいですねえと言って別れた。
〈参考資料〉
レジメ『摩訶耶寺庭園の造形美と歴史』(2021)
執筆 大井豊
書籍『摩訶耶寺庭園学術調査報告書』(1969)
執筆 吉河功,高橋佑吉,江ヶ崎龍三 他
発行 1969年、日本庭園研究会
以下、その表紙と目次。
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