ジョンランディスの方がモダンであるかのような、アダムマッケイのマルクス兄弟ぶりであるが、オフビートとかを通り越し辻褄の合わない言動、有り得ない思考、全くかみ合わない会話、荒唐無毛な所作行動、と、ファレリー兄弟の三バカ大将がまだ合理的に思考できる人物に見えてしまう、マッケイのニュースキャスターであったが、時代設定の79年、GNNが誕生した年、Gはグローバルで現在の悪しき風習を取り入れているけれど、24時間放送のニュース・プログラム、現実を目の当たりにさせるかのように見せながらも、現実が虚構とシェイクハンドしてドッキングのエンタメのはじまりはじまりであったこと、もはや人々が現実を諦める瞬間の立ち合いの序章だったのだなと、いま思えば、思えてくるも、主人公ファレルが先見の明のように取り入れる報道の在り方、もちろん、我々も日常的に接している現在に流行ってる報道手段を作品では取り込んでいるわけだが、ファレルは”伝えなければいけない”ものではなくアメリカンが”見たい”ものを流さなければと何気に言い出し、啓蒙をやめ羨望の欲望を写し込みすることサジェスチョン、空撮される現実のカーチェイスや音声取り入れ単純化によるスポーツ賛美、ハプニング求められるライヴ中継は天気予報も同じでありなんなら飛んできた看板に当たって脳震とうの天気予報士も見たいという欲望がチラホラな大衆の眼差しをクロースアップ現代させ、トップや企業との相乗効果、捏造もいとわない方向へと彷徨していくも、最終盤には悪しき慣習化した報道の在り方とも決別を宣言するも、その道しるべは我々オーディエンスに託す感じになるが、マッケイ自身が政治的、社会的に求めることはマネーショートやバイスで表されるであろうかな。まさか、啓蒙主義への回復ということではなかろうぞ。
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