mixiユーザー(id:3341406)

2021年06月16日23:38

528 view

『女人讃歌〜甲斐庄楠音の生涯』 栗田勇〜その1(改訂)


◆「あやしい絵展」

東京国立近代美術館の「あやしい絵展」には結局行く事ができなかった。
会期3/23〜5/16は、東京の新型コロナ第4波に重なり、閉館期間があったし、緊急事態宣言が出されていなかったとしても、わざわざ東京迄出かけていくのには及び腰にならざるを得なかった。
大阪歴史博物館に7/3〜8/15の間巡回するので、そちらに行く手もあるが、ともかくコロナが落ち着いてくれなければ。
そんな訳で、よくよく考えてネットより、行かなかった展覧会の図録を注文した。2,800円。

そこ迄した理由は、甲斐庄楠音(かいのしょうただおと/1894-1978)と島成園(1892-1970)の作品が展示されていたからだ。特に前者の展示は9点に及ぶ。

「あやしい絵展」は以下のような構成になっている。
・第1章 プロローグ「激動の時代を生き抜くためのパワーをもとめて(幕末〜明治)」
・第2章「花開く個性とうずまく欲望のあらわれ(明治〜大正)」
 −1;愛そして苦悩〜心の内をうたう
 −2;神話への憧れ
 −3;異界との境(はざま)で
 −4;表面的な「美」への抵抗
 −5;一途と狂気
・第3章 エピローグ「社会は変われども、人の心は変わらず(大正末〜昭和)」

目次だけでも分かるが、本展の中心は大正時代の美術動向である。
その第2章−4に甲斐庄の作品は収められている。このタイトル;表面的な「美」への抵抗は、まさに甲斐庄への賛辞だと理解していいだろう。

展示された9点の展示中7点が京都国立近代美術館の所蔵品である。
京都国立近代美術館では、1997年に彼の個展を開催した事がある。本画83点、素描草稿類26点で構成されたという。膨大な量だが、その頃私は甲斐庄の名前も知らなかったように思う。

◆甲斐庄楠音について過去のレポート

彼について、私の主たる記述は過去に2つあり、1つは2009年5/6、東京藝大美術館で行われた「日本の美術館 名品展」のレポートで、甲斐庄の代表作《横櫛》について触れている。
参1.)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1158352288&owner_id=3341406

もう1つは、2010年1/8、島田康寛監修・著の『甲斐庄楠音画集〜ロマンチック・エロチスト』の読後レポートである。
参2)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1384526882&owner_id=3341406

こちらはタイトルに「画集」とある通り、作品と資料類の写真掲載がメインだった。
しかし2009年に発行されたもので、内容は新しい情報に裏付けられていた。
このレポートでは、特に彼の性的傾向が生まれるに至った経緯、そして、それがどう作品に反映されたかに絞って書いている。

◆栗田勇著『女人讃歌〜甲斐庄楠音の生涯』

今回、彼の作品を展示する展覧会に行けなかった事で触発され、1冊、図書館から借り出して読んだ。
それが、標題の栗田勇著『女人讃歌〜甲斐庄楠音の生涯』である。発行は1987年新潮社と、少々古いが。
  フォト
表紙の絵は甲斐庄楠音の《舞》/1919(大正8)年 部分。

栗田勇は1929年生まれ、東大仏文科卒〜同大学院修士課程修了で、フランス象徴主義文学が本籍だが、日本文化研究所所長を務めた事もあり、研究・著作は幅が広い。

◆甲斐庄楠音とその時代

さて、甲斐庄の理解を進める前提として、大正は美術界においてどんな時代だったか確認しておきたい。
明治末期1910(明治43)年に創刊された文芸雑誌「白樺」は、新しい時代の西洋美術や文学を国内に紹介して、大きな影響を及ぼした。
若い芸術家達は、ほぼ同時代の西洋の動向として、ロダン、ポスト印象派、ラファエロ前派、アール・ヌーボー、フォービズム、キュビズム等、自然主義や形式主義から飛び出そうとする芸術家の存在とその作品を知る事となった。彼等は、己の生と芸術の問題としてそれらと対峙する。
洋画壇では、運営が官僚的で、且つ古い自然主義的なレベルから出ようとしない官展(1907〜文展)の傾向を嫌い、新たな美術団体を結成しようとする動きが相次ぐ。それは、日本画壇にも、官展自体にも影響をもたらす。

1912(大正元)年 ヒュウザン会;中心人物は岸田劉生,高村光太郎 他
1914(大正3)年 二科展;津田清楓,有島生馬,安井曾太郎
1914(大正3)年 再興日本美術院;横山大観,下村観山
1915(大正4)年 草土社;岸田劉生
1919(大正8)年 帝展

日本画においては、東京と伴に、江戸時代の円山・四条派の流れもあり、京都が画壇として大きな力を持っていた。中心となった先駆者は竹内栖鳳。文展,帝展の審査員にもなった。

1909(明治42)年 京都市立絵画専門学校(現 京都市立芸術大学)開設、教授に竹内栖鳳。

第1回卒業生には土田麦僊,小野竹喬,村上華岳等がいた。
甲斐庄はこの1年下だった。

◆国画創作協会 及び近代的自我と美術

1918(大正7)年 土田,小野,村上等は文展にあきたらず、国画創作協会(略して国画会)を設立。同年第1回展開催。竹内栖鳳は顧問に就任。

国画会の設立理念は「創作の自由を尊重するヲ持って第一義となす」だった。

明治の開国以来、西洋から入ってきた最大の思潮は、近代的自我の解放・確立だった。
芸術に自由を求めて、先ずぶつかるのが、美と快楽の相克の問題だろう。明治末の「白樺」等から当代の西洋芸術の刺激を受けた大正期の美術家は、形式主義を打破するため、官能、性の問題を避ける事はできなかった。
「大正ロマン」「大正デカダンス」という言葉は、こうした時代推移と背景でやってくる。それは日本画でも同様である。

下は、49歳で既に大家であった竹内栖鳳が第7回文展に出品した《絵になる最初》(1913)。のち重要文化財となった。
参3.)https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3c/Takeuchi-posing-1913.jpg
甲斐庄程前面に出てはいないが、ここにも美と欲望の葛藤が潜んでいる。

◆再度デビュー作《横櫛》について

甲斐庄は、京都市立絵画専門学校に入る前、京都市立美術工芸学校の図案科に入学した。その卒業制作で描いたのが《横櫛》/1916(大正5)年頃 である。兄嫁をモデルにして1週間程で描き上げたと言われている。
これは、京都市立絵画専門学校で1年先輩の村上華岳の推挙により、1918年の第1回国画創作協会展に展示される事となった。
これは画家仲間だけでなく、ジャーナリズムからも大きな反響を呼んだ。

栗田勇は《横櫛》についてこう書いている、
「それまでの江戸浮世絵の形だけを踏襲した非個性的であまりに装飾化された美人画ではなかった。女という生き物の血なまぐさい生理が、白い顔の妓女から滲み出してくるのであった。そこには目でみるよりも官能にうったえる雰囲気が、濃厚な装飾性をつらぬいて立ちのぼるのである。当時の若者たちは、谷崎潤一郎のデカダンス文学の世界にそっくりだといって感動した」。

「横櫛」というタイトルは、参1.)にも書いたが、河竹黙阿弥作の狂言『処女翫浮名横櫛(むすめごのみうきなのよこぐし)』から来ている。1864(元治元)年初演、主人公の通称「切られお富」は恋人のためにはユスリや殺人迄犯す女である。
甲斐庄は、歌舞伎を母と一緒によく観にいき、自分でいろんな女役を演じてみせる程好きだった。

ちなみに、この第1回展で土田麦僊が出品したのは有名な《湯女》で、のち重要文化財に指定された。
参4.) https://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=2810
半裸の湯女を描いた作品だが、甲斐庄の女性とは全く行き方が異なり、官能も欲望も感じさせない。

甲斐庄を国画に誘ってくれた村上華岳だが、第4回展(1924)の出品作の評価の問題でリーダーの土田麦僊とぶつかり、次回展から退会した。

◆「穢い絵」事件

そして、第5回展(1926)に甲斐庄が出品した《女と風船》で「穢い絵」事件が起こる。
画像は参2.)でご覧頂きたい。
土田麦僊がこの《女と風船》を「穢い絵」と評価し、出品を許可しなかったのである。
栗田の文章によると、展示させてくれるよう懇願した甲斐庄に対し麦僊は「穢い絵は会場を穢くしますからね」と言ったそうだ。
国画会の何よりも自由をという設立理念は何処に行ってしまったのだろうか。

麦僊は1回前の第4回展で彼の代表作《舞妓林泉》を出品している。
参5.) https://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=2068
「舞妓を描くにしても、自分は決して心理的な解釈はしてゐない。自分には、舞妓も一茎の花もそこには何の変りもないのである……只自分は、そこに色あるいは量の塊を見た」、麦僊の言葉である。

また、遡る1911(大正5)年、麦僊は彼の後援者への手紙で既にこう言ってのけている、
「穢い土から菌が生じてもやはりそれはキタナイキノコである如く、美しい人格からしか美しいものは生れさうにありません。愛の満ちたる人格からは愛に満ちた作品が生まれます」。

「穢い絵」という言葉は、甲斐庄の心と一生を完璧に撃ち砕いた。
甲斐庄は自ら死ぬ事は思い留まったが、何十年も画壇を離れる事となった。
82歳になって初めて開かれた回顧展のあいさつ文の中で彼は書いている、
「私のモットー、穢いが生きていろ」、
「京の干菓子のような、友禅の模様のような絵を追っぱらわねばならん」、
「私は絵描きに絵を裁かれる画壇が厭でした」。

国画会は、結局1928(昭和3)年の第7回展で解散する事となる。


(続く)
 
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2021年06月>
日 月 火 水 木 金 土
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930