◎スピルバーグ
☆『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』: 冒頭で主人公の様々なパーツパーツを表わしていきながら、そのシークエンスの最後に主人公の全体像が表わされることは『シンドラーのリスト』で成されたけれど、その後も作品を通じて、シンドラーとはいったい何者であるか?とこの矛盾に充ちたペルソナの追求されたわけだけれど(とは言っても、スコセッシみたいな掘り下げはされなかったけれど)、このインディジョーンズではそうした追求はなく娯楽に徹している。
☆『フック』: 『許されざる者』におけるハックマンの起用は、彼の元ルームメイトであったダスティンホフマンが『フック』でキャストされたことに対抗して行われたという説や、『ダーティハリー』が興行成績が『フレンチコネクション』に負けたから、その復讐のためにイーストウッドがハックマンをやっつけるために行われたという説があるが、どちらも間違いであろう。なぜなら、そのどちらも私の自説であるからである。 フックという“存在”はジョーズと同様に、危険でありながら夢を与えるという、スピルバーグらしい創造である。ホームへとランを通して、主人公をはじめとした登場人物たちの、未来への眼差しは過去への憧憬とやがて交わってゆく。誰しもを助けるために飛び込むキャプラのダイブと、誰しもを受け入れるフォードのハグが、勇気として表わされる。そして、スピルバーグのスペクタクルには彼ならではしか語り得ないもの、映画ならではの退行は、勇気は童心によって在ること、メッセージする。
☆『カラー・パープル』: フォードが表わすもの、すなわち過去の憧憬を見つめていた人々がやがて未来への眼差しへと転じること、そしてキャプラが表わすもの、すなわち未来ばかりを見つめていた主人公が過去にある身近にあるものを見つめだすこと、それらの交わり、或いは、スペクタクルなおおらかさというスピルバーグらしさはある。それでも、それまでの彼のテクストとは少々違ったものが表わされる。父性社会における愛の不在がそこに表わされている。自由(=愛)がないアメリカが表わされる。過去への憧憬と未来への眼差しの交わりが、父性の愛が不在する社会で表わされる愛として描かれる。それは身近にありながら遠くにあるものである。ネティの手紙が届くはずのポストに、シャグのセリーに向けた愛に、そしてシャグが見付ける手紙に表わされる。ヒューマニティという交わりは、神(父性)もまた愛されたいことも照らし出す。ミスターや神父の、父性の回復=真人間になることが表わされる。ラスト、紫の野原で姉妹と、ファーザーズは結びつきをもつことができる。
☆『BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』: BFGが巨人から「お前は巨人の恥だ」と言われるとき、スピルバーグはマイノリティ的にいつも目立たないヒトの味方ぶり発揮される。それはアメリカ映画のある意味、おヤクソクで、アメリカ映画の継承者ぶりを表わしているところあるけど、これまた彼らしさは表わされている。 アメリカンドリームとはそもそも、階層社会の英国から独立し平等社会のアメリカが生まれたとこからの謂れがあるはずであるが、ちゃんとプリプリプーしてくれるイギリスを味方につけるところ、それに対する平等に見えながらも力強い者が支配する巨人たちに、いまの力強く荒々しいアメリカを表わさんとする姿勢を感じる。実際に会社組織においてだけでなく政治においても宗教においても、力強いヒトが指導者であることは我々の認識下にあると思われる。 スピルバーグのシュルレアリスムはそうした先入観を打破してくれる。スピルバーグのシュルレアリストBFGは、夢見ることできないけれど外に出たがっている少女をいざない、超現実を表わさんとする。そうした世界でBGFと少女は触れ合うのである。いつも側にいてくれる巨人との戯れ、野菜を養っていくこと、それはE.T.とエリオットが求めるホームと同じように、先入観を打破するトポスに在る。
◎イーストウッド
☆『ガントレット』にはこの前もこの後のイーストウッドの作品にも表される全てのものが詰まっていると勧めることができるものがある。ゴースト乃至レジェンドやオカルト的なものは表わされないが、リンチ、譲れないもの、意地、プライド、かつて想っていたことの儚さ、そして情婦への愛、そしてそれはなによりも愛そのものを表わしていることであり、そうした彼が常に表わしているものがこの作品には詰まっている。『ダーティハリー』のように心情的に流れが納得できるリアリティーには欠けていて、ここまでなるか?という荒唐無稽なところがあるけれど、無駄な部分は削ぎ落とし、ニッケルオデオン以来のアメリカンなムーヴィーであること、常に動き続ける主人公に表わされる。イーストウッドはここではゴーストでもレジェンドでもヒーローでもなく、普通のヒトを演じる。主人公が彼自身が譲れないことを語り花瓶に花をさすソンドラロックが表わされるシーン、蜂の巣状態にされる家やパトカーやバスによって生まれるリズム、様々な乗り物によって生まれる連続した動き、それらがムーヴを生む。こゝろがムーヴするのである。彼がオーソドックスにアメリカというものを表わしたいということ、より見えてくる作品であった。
☆スピルバーグはオーディエンスである我々の眼差しを「物語空間」にしっかりと置きながら、過去への憧憬と未来への眼差しを生んでいく。スピルバーグのそうした志向性に対し、イーストウッドのコンティニュイティはアルバムを捲っていくような、そうした効果によって我々の眼差しをいざなう。ゴースト、或いはレジェンドというものを視せ聴かせることにおいて、そうした走馬灯が効果をもたらしたりする。彼のテクストの不思議なセンスはそれと関係するものである。『父親たちの星条旗』のエンドクレディットに表わされるフォトの表わされ方を観たときに、やはりそうなのかと思うのであった。
☆『アウトロー』
*主人公ジョージー・ウェールズは逃亡というより漂流している。リンカーンのようなチーフをはじめとした“非文明人”たちとの邂逅が成される。彼らは約束の地としての、ブラッドビュート牧場へ向かう。そこはゴーストタウンの側にある場所であり、人が目を向けなくなったトポスとして存在している。誰しも知らなかったけれど、確かに在る場所。アメリカの或る場所。アメリカという場所。 ピルグリム・ファーザーズは、馴れ合いを好まない孤高であったのかもしれない。なにげに捻くれつつおおらかであり、頑固であり親しみやすさを持つアメリカという個。イーストウッドはアメリカという伝説を確かに表わしている。そこに漂流して辿り着いてから、アメリカは頑なまでのそのフィギュアを表わしている。
*イーストウッドのマチズモの世界は供儀社会に生きる主人公が表わされるのであり、その場における女性にはケガレが表わされる。少女は『ペイルライダー』と同じように、そしてイーストウッドにおいては常に穢れある聖性として在る。
☆『バード』: 全体的な不安定な情緒のイメージに、天才/伝説、人間の弱さ、愛くるしさ、葛藤確執、ホームを(持つことが出来なかった、というより)持つことを拒否するかのような孤高、がバードに表わされている。イーストウッドらしいものが、いつもの彼とは違ったフォルムに表わされる。 ハリウッドでの売る目的にストーリーテリングの分かり易さがありイーストウッドはそれを信条とするところあろうが、『ジャージー・ボーイズ』はまだ分かりやすさあっても、『バード』の時空間、天才の不安定とリズムを合わせるかのように表現される。この不安定な情緒を表わすかのようなモンタージュ、めくるめく記憶としてのイーストウッドでありながらにして異なるものである。
☆『ペイルライダー』には神を敬うセンスはないだろう。アンチ聖性のイーストウッドはヒトを描く。シェーンではない当時(85年あたりのアメリカかな)の現代性だけれど、つきつめれば人間の普遍性- 神ではないヒューマンの在り方 -が在るのであり、だから70年代から現在においての長いスパンでも通じる、人のこゝろに届くもの在るのかとイーストウッドに思う。『ペイルライダー』、流れ者が町にやってきて皆を助け、そして去っていくといった、なんの変哲もないアメリカンなフォルムでなんてことないようにみえつつ、やはり不思議な映画である。敵対するのは7人のガンマン。彼らは黙示録の仔羊たち、神の力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、賛美を受けるのにふさわしい方たち。
☆『ハドソン川の奇跡』: 後半はひとりの伝説ではなく、我々ひとりひとりにヒーローになる機会が訪れることが表される。飛行機が事故を起こし、ハドソン川に着地を試みる。偶然という時空間、それだけに生きているのではなく、我々はいつも選択というものと対峙している。偶然と選択が、聴聞会のシークエンスにおいて、システムからではなく人としての立場から表される。サリーは彼の立場を証言する。彼の立ち位置はそこにだけにしかないからである。市民はその言葉に耳を傾け、人であること、その立ち位置を確証する。最終盤のショット、副機長のジョークが緊張した聴聞会の場を和ませる。
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